コロナ恐慌からの脱出(38)クルーグマンの最新ポスト・コロナ経済論
クルーグマンが『ビジネス・インサイダー』5月8日号で、今回のバイデンによる巨額財政出動について再び論評している。また、インフレについてはMMTとの立場の違いについても言及している。これまでのまとめといえるものだが、かなり長く話しているので、いくつかの論点を紹介しておきたい。クルーグマンによる最新のポスト・コロナ経済論である。
その前に、簡単にクルーグマンのスタンスを振り返っておこう。まず、1990年に『期待逓減の時代』を書いたさい、多少のインフレは是認して経済成長を重視する立場から、当時は成功したとされたポール・ボルカー元FRB議長の「インフレ抑制」を批判していた。インフレ抑制で失われた経済成長の恩恵の方が大きかったというわけである。
また、1990年代も最初の頃は停滞した米経済に対して財政出動を唱えていたが、FRB議長グリーンスパンの金融政策が成功したあたりから、金融政策主導の経済運営に魅力を感じ始めたようだ。さらに1998年、それまでのインフレ抑制が中心だったインフレ・ターゲット政策を「ひっくりかえして(インバート)」、デフレから脱却できない日本のため、いわゆる「インフレ・ターゲット論」を展開した。ところが、2008年、アメリカが金融危機に陥ったさいには「ためらいなき財政出動」を主張し、財政を主体とした経済回復策を提示した。
さらに、インターネット上でMMTが盛んに論じられるようになると、批判的な立場から論争に介入し、とくにステファニー・ケルトンとの論争は知られている。MMT派にいわせればケルトンに撃破されたことになっているが、たとえば金融政策についての議論において、財政支出と金利の関係について、改めて注目させたという意義は大きい。
さて、以上のような前提で、これからクルーグマンによる、現時点でのポスト・コロナにおける米経済の見通しを見ていくことにしよう。
クルーグマンはバイデン大統領の巨額な財政出動が、インフレを生み出す可能性は認めている。しかし、それが1970年代のようなスタグフレーションを引き起こすような悪性のものにはならないとコメントしてきた。今回インタビューアーのベン・ウィンクによる「一過性のものか、それとも猛威をふるうのか」との質問に対しては「私は前者だ、高い確信はないけれど」と述べている。
ただし、これまでの簡単なコメントと異なるのは、たとえば、木材の価格の高騰や輸送費の急上昇といった、すでに住宅バブルや景気回復途上での現象について触れながら、賃金の上昇が定着するか否か、また、現在のFRBによるインフレ・ターゲットが2%の目標で十分なのかについても論じている。
賃金については、もちろん、インフレ率以上の上昇を望んでいるが、しかし、いまのように労働組合が事実上衰退している状態では難しいことを予測し、もし高いインフレ率になるとすれば、企業側が賃金協定に乗り出すことも考慮にいれるべきだと主張している。前出の『期待逓減の時代』では、当時の労働運動の衰退が賃金上昇という「期待」を逓減させてしまったと指摘していたが、現在は何らかの方法で賃金を上昇させる方向にもっていくことが、消費の増大を促し長期停滞から脱出する圧力にもなると考えているようだ。
もうひとつ、インフレ・ターゲットが2%でいいのかという問題ついては、基本的にこれからインフレは起こると考えているので、「2%では低すぎる」と指摘する。「全体的な問題としては、いまほとんど動きのない価格が、将来的なインフレ期待とむすびついていくかどうかということです」。インフレがほぼないなかでの経済運営ではなく、ある程度上昇していくなかでの経済運営が好ましいというわけである。
最近、イエレン財務長官が「金利引き上げもありうる」と述べていながら、「利上げを奨励したつもりはない」と訂正した発言の「ブレ」を意識してと思われるが、インタビューアーのウィンクが「いつ金融引き締めが始まるのか、2023年以前に金利引き上げがあるのか」と質問している。それに対して、クルーグマンは「(利上げの)可能性はかなり高いだろう」と答えている。「そのとき(2023年)よりまえに、私たちは壁にぶつかるだろう」というのである。
「たとえば、GDPで8%の成長をしていくとしよう、そのときには、経済がかなり加熱するまでに、それほどの時間は要しない。たぶん、今年の年末までには、私たちは過熱した経済を経験することになる」
そうなったときには、かなり高い確率でFRBは金利を上げるというわけで、(パウエルFRB議長が「2023年まで金利は上げない」と言っているが)彼のニュー・ケインジアン的な考え方からすれば当然のことだろう。しかし、問題なのはそのあとで、景気過熱を金利引き上げによって抑制するころには、逆に巨額の財政出動の効果が薄らいでいる可能性があると予想している。
「回復はかなり早いと見ている。しかし、問題はいまの救済プランが終わった後に、経済の減速を阻止する政策に対して、FRBがブレーキをかける必要を感じるような状況に、私たちが嵌り込んでしまうかどうかだ」
しかし、こうした懸念を除けば「仕事はたくさんあって、かなりよい状況が見られるようになる。インフレ率はちょっと高いが、収入もそれを上回るていどに維持されるだろう」。クルーグマンはこの数十年の間に、2つの教訓を得たことが大きいという。ひとつは、完全雇用を続けてもハイパーインフレなどは影もかたちもないということ。もうひとつが、財政赤字もいまのレベルなら、ほとんど問題にならないということである。
この認識は、MMTと共通しているのではないかとウィンク指摘されて、クルーグマンはMMTについて次のように皮肉っている。「MMTには正しいことも新しいこともあるが、正しいことは新しくなく、新しいことは正しくない」。まあ、これはよく言われた「現代貨幣理論は、現代的でもなく、貨幣について語っておらず、理論にもなっていない」と言う論評の別バージョンみたいなもので、エスプリはあっても経済政策にとって大した意味はない。
ここでのクルーグマンによるMMT再批判で、いま耳を傾けるべきは、金融政策を使わないで経済政策が展開できるのかという疑問である。「MMT理論家たちは、金融政策が十分使えると思われることでも、役に立つとまったく信じていないらしい。ステファニー・ケルトンなどは、私に『あなたが金利を上げても、インフレはコントロールできない』といっている」。
たとえば、インフレ・ターゲット策という金融政策で、日本のデフレを克服できるというのなら、それは間違いだということができるだろう。事実、日銀の「インタゲ」はほとんど無力といってよかった。しかし、これまで行われてきた金融政策一般が無意味だというのなら、それは根拠がないといってよい。「金融政策が無意味だというなら、今回のような大規模な刺激策の場合には、ただ当惑してしまうだろう。というのも、インフレに対しては財政緊縮だけが、唯一の解決策になってしまうのだから」。
たしか、この問題ついてはMMT批判者のパーリーも、経済学者ボールディングの考察を引きながら論じていたはずだ。経済学において未知数が3つあるとすれば、その値を知るには最低限3つの方程式が必要になる。同様に、複雑な問題を解決するには、それに見合う多くの手段がなければならない。せっかく金融政策が存在しているのに、MMT理論家たちのように金利をゼロに固定してしまえば、あとは財政政策しかなくなる。
おそらく、MMT理論家が指導する国家は、財政政策だけでインフレと闘うしかなくなる。しかし、これまでの歴史的経験からいって、増税によってインフレに対応するのは、かなり後手に回る可能性が高い。しかも、経済へのマイナスの効果が大きいから、よほど注意深い増税が必要となる。おそらく、緊急を要するインフレの対策としては使い物にならないだろう。
金利政策について付け加えておくと、財政出動を行ったさい、ヒックスのモデルでは金利は上昇することになる。しかし、MMTの大御所ランダル・レイが論じてきたように、こまかく各国の中央銀行による政策を観察すると、実際にはオーバー・ナイト市場に通貨が集まるので、金利は下がってついにはゼロになる。この現象をもってMMT論者は、あっさりと財政支出が金利を下げると論じる。
この点について、レイの『入門書』にはたしか「まず、金利は下がって、それから上がるのだ」とあって、いまの経済においては、金融当局が政策目標に従って、買いオペを行い金利を上げることを認めている。しかし、たとえば1990年代の日銀の「ゼロ金利政策」のときのように、買いオペを行わずに放置して金利ゼロにしてしまう場合もあった。つまり、このときですら金融政策は使われており、そして「効いて」いたのである。
関連していることをひとつ付け加えると、ケルトンの『財政赤字の神話』を読んだ人は覚えていると思うが、彼女はFRBはインフレの予想をあまりにも早く出してしまうため、雇用が十分なレベルに達してしまう前に金利を上げてしまうという。そうした失敗をなくすために、インフレの判断は財務省の部局に移すべきだとケルトンはいう。
しかし、優秀なエコノミストを集めたFRBが適切なインフレの判断ができないとすれば、どうすれば財務省の部局に、適切な判断ができる人材を集めることができるのだろうか。そしてまた、財務省は政府の一部であることを考えれば、その判断はほとんど常に、そのときの政権の思惑に従ったものになりがちだ。それでは党派的な判断に傾斜してしまい、賢明な判断からは遠ざかるだろう。こうした組織論的な理由からも、FRBから権限を剥奪して財務省に回すという考え方には、かなりの楽観と思い込みがあるような気がする。
最後にクルーグマンのポスト・コロナ経済論について述べておくと、やはり、目立つのはあまりの楽観ぶりである。これは米民主党左派としての立場から生まれるバイアスではないかと思えるほどである。たとえ自説のとおりに、インフレを是認して、経済成長を重視する政策が可能になるとしても、膨れ上がった株式市場や住宅市場は平穏にソフトランディングするとは思えない。
また、はたしてインフレそのものも、彼が予想している「ちょっとだけ高い」くらいですむのかどうか。このインタビューは、あくまでインフレとその抑制手段をめぐる議論であって、すでにピークに達している、アメリカの資産バブルについては、上昇の限界が近づいていると思われるのに、残念ながら何も語っていない。
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