コロナ恐慌からの脱出(9)巨大な財政支出だけでは元に戻らない

米財務省は5月4日、第2四半期に3兆ドル(約320兆円)の借り入れを行うと発表して世界に衝撃を与えた。もちろん、史上最大の額で日本での国債発行や財政支出は少なすぎるという議論に拍車をかけている。

いかに新型コロナウイルス感染が広がるなかとはいえ、ここまでくればこれまでの財政規律とか財政キャップ論とかは無意味になってしまった。これからは、その金額がどのように米経済の復活を実現していくかに注目が集まることになる。

日本でも安倍政権の新型コロナウイルス対策が、財政支出39兆円、事業規模108兆円ということで、ひとまず「事態が事態だから」当然のことと論じられたが、アメリカのトランプ大統領が支出について発言するたび、「日本は少ない」という声が上がっている。

しかし、これまで財政規模についての議論がかまびすしかったことを思い出すと、どういうわけか日本では「こんなことをしていいのだろうか」とか「財政規律のない財政になってしまった」といった声は低く抑えられているのが不思議だ。財政赤字は怖くないと主張する、反緊縮経済学や現代貨幣理論などは、もう必要ないのである。

そして、何よりも「これまで経済学が指摘してきた財政とインフレとの関係とか、財政規模の最適理論はどこに行ったんだ」という、当然、出てきてよい話が聞かれないのは不自然である。大方、新型コロナで日本国中が混乱にあるなか、せっかく出てきた救済策にケチをつけるのはまずいという、「空気」を読んだ遠慮だと思われるが、それでは経済学者の存在意義がなくなるのではないか。

米国では、当然、共和党の財政タカ派からは疑問の声があがっているが、最近読んだもので面白かったのは、民主党系で財政ハト派が多いはずの『フォーリン・アフェアーズ』電子版4月16日号にザッカリ・カラベルが寄せた「史上最大の財政刺激策はコロナ不況を阻止できるのか? ハイパー・ケインズ主義のリアル世界における実験」である。

「新型コロナウイルス危機は、公的分野と私的分野の境界を崩壊させてしまった。それは、少なくとも現在進行形であり、たぶん永久に続くのではないか。そうなれば、すべての経済行為が政府によって仕切られ、自由市場はなくなってしまう」

もちろん、財政が予想もつかない巨大な規模になった経済として、その「先駆」である日本経済が取り上げられている。日本は今回のパンデミックが始まるまえから、すでに財政赤字は対GDP比で230%を超えていた。アメリカはその時点でまだ110%でしかなかった。しかし、おそらく、アメリカもこのレベルの数値ならば、早晩追いつくことだろうというわけである。

「じきに、日本経済は財政における『例外』ではなくなり『模範』となってしまうだろう。……もし、巨大な国債発行と財政支出が世界の国々を、ジンバブエではなく日本にしてくれるのなら、われわれは楽観的になってもいい。しかし、それは一種のベスト・シナリオというべきで、もっと陰惨な予想を立てることも可能だ。それが単なる当面の一時しのぎだというのなら分かるが、政府支出が現実の経済活動すべてを占めてしまうことなどありえない」

それほど明快な批判の論理を提示しているわけではないが、これから始まるコロナ経済が永続的なものではない、あくまで「実験」「一時的なもの」なのだと言いたいことは理解できる。しかし、実際には政府が巨大化する戦時経済のような体制が経済を支配し、そして、すべてではないにしても、経済活動のかなりの部分を左右する可能性があることは否定できない。

しかし、こうした事態にあっても、政府部門が巨大化した経済体制というものが、これまでの実例から考えれば、あまり活力のないものになりがちだという歴史的経験は思い出すべきだろう。それらは、旧ソ連型の社会主義はもとより、一時的に模範となりかけた北欧型の社会民主主義や英国の福祉社会も、すでに過去の幻想になっている。

そして、擬似自由市場と独裁的政治の組み合わせである中国型経済も、果たしてこのまま継続できるのかは不明になってきた。新型コロナウイルスの蔓延が一時的に現実を忘れさせたが、中国の民間負債上昇や不動産バブルは、すでに限界に達していた。新型コロナは崩壊のトリッガーと見なされるべき事件だった。

武漢の新型コロナ蔓延を厳格な「封じ込め」によって克服したと報道されてから、「中国は一人勝ちして、これから独走するのではないか」という見方が広まっている。しかし、巨大な民間債務が消滅したわけでもなく、また、それと裏表の関係にある不動産バブルが、解決したわけでもない。

しかも、楽観的な見方が広がった中国経済についても、ポスト・コロナの現実が少しずつ報じられるようになってきた。それは決して「一人勝ち」といったものではありえない。英経済誌『ジ・エコノミスト』4月30日号が報じているように、GDPの落ち込みはざっと言って10%程度のものだから、残りの90%は維持できている。つまり「90%経済」ということになる。9割が大丈夫なら普通はほぼ万全ということだろう。しかし、そうではないのだ。

「政府の選択より個人の選択のほうが、経済の落ち込みの大きなファクターである。しかも、個人の選択の回復のほうが、政府の選択の回復よりずっと困難である」

政府がいかに回復を煽っても、民間がかならずしもついていかない。政府部門は元に戻ってように見えても、国民の意識は低迷したままだ。詳しくはブログの「ポスト・コロナ社会はどうなる(5)封じ込めの「空気」がオーバーシュートするとき」を読んでいただきたいが、始まってよいはずのリバウンドが起こらないのである。

それは当然のことだろう。世界経済の拡大に大きく依存していた中国経済は、アメリカとの経済戦争に入った時点で、これまでの諸条件の多くを失っていた。もちろん、アメリカも多くの犠牲を払っているわけだが、コロナから脱却できたということだけで、かつての海外市場や国民の意欲が戻ってくるわけではないのである。

これまで、日本経済が立ち直るには、思い切った金融緩和をすればいいという説が流行を見たかと思えば、最近は財政支出をいくらでも拡大できる理論によって、経済政策を仕切れば楽勝だという議論が注目された。しかし、前者は安倍政権で実行されたが十分な効果は得られず、後者はあまりに独特の経済観をもっているため、現実の政治に導入される可能性は低かった。

この2つは理論的には金融と財政と、力点が対照的だったが、それぞれの強調する方向から圧倒的な量を供給すれば、問題が解決すると主張する点では共通していた。もちろん、経済だから投入される量が問題であることは間違いない。

しかし、この連載を読んでくださった方はお気づきのことと思うが、投入する手順や時期、あるいは場所の問題があり、また、それらが適切であっても何らかの障害が存在していれば、圧倒的な量が投入されても、当初の目標が達成されない。そんな単純なことも、圧倒的な金融緩和理論や無限の財政出動理論にとっては、どうでもよいことだった。

基本的なことを放り出して、ひとつひとつ構造や手順を検証することなく、ひたすら圧倒的な量だけを論じていたというのは、もはや理論でもなんでもなく、ただの空虚な決断主義だったのではないだろうか。いま新型コロナ不況からの脱出という、具体的な課題が生じてきたときになって、事態の複雑さに気がついたのだとすれば、あまりに遅すぎるだろう。

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