コロナ恐慌からの脱出(4)パンデミックと戦争がもたらしたもの

1918年9月、アメリカを代表する医学者ウィリアム・ウェルチ博士は、マサチューセッツ州にあった陸軍のキャンプ・デーヴンスを訪れた。このキャンプで兵士たちに流行している風邪の調査のためだった。当時、ウェルチの名声は高く、彼が乗り出せば、この原因不明の悪質風邪の流行は、たちどころに解決すると期待した陸軍将校たちも多かった。

しかし、ウェルチが直面したのは、聞いたこともないような悲惨な事態だった。すでにキャンプの罹患兵士は1万2604名に達し、前日も66名が死んだと報告を受けた。しかも、不思議なことに亡くなったのはほとんどが、ほかの兵士より壮健といってよい若者たちだったのである。

最悪だったのは、毎日、罹患兵士と接触していた看護婦たちへの感染だった。約300人いた看護婦のうち、すでに90人が罹患して動けなくなっていた。深刻な症状に陥った者も少なくなく、いまにもすぐに死去した兵士たちの仲間入りしそうだった。当時、アメリカの代表的医学者にしても、この急速で悲惨な状況を阻止する力はなかった。

「ウェルチが切り出した肺の小片は、ふつうなら子供が遊ぶゴム風船のように水に浮くはずのものが、水中に沈んでしまっていた。所見として特に際立っていたのは。水っぽい血液混じりの液体が大量に肺に詰まっていたことだった」(A・W・クロスビー『史上最悪のインフルエンザ』西村秀一訳)

当時は、この恐るべき感染力をもった「風邪」の正体を、突き止めることは不可能だった。1933年になってから、ようやくウィルス説が有力になったが、電子顕微鏡で見られるようになったのは50年代になってからだった。いまでは多くの研究により、どうやら鳥インフルエンザの一種だったということが分かっているらしい。

それでも、変異したインフルエンザ・ウィルスの新型が登場すると、初めは治療法がわからずにパニックを生み出すことになるのは変わりない。ましてや、SARSや今回の新型コロナウイルスなどの場合のように、最初に発生した地域の情報があいまいであれば、その情報にむなしく翻弄されるのは、まさにいま経験している。

ここで述べておきたいのは、そうした医学あるいは感染症学の発達史ではない。その分野の書籍は、一般向けのものを含めて多くあり、いま、さらに急激に増えている。この連載で振り返っておきたいのは、こうした新型ウィルスの登場が生み出す経済への影響であり、ほかの社会的あるいは政治的事件との「複合」が生み出す現象なのである。

この「スペイン風邪」と呼ばれたインフルエンザが、とくに興味を引くのは、まず、その膨大な感染者と死者にもかかわらず、不思議なことに、まるで大したことがなかったかのように忘れ去られたことだ。前出クロスビーの本の原題は「アメリカの忘れられたパンデミック」というのだが、スペイン風邪が忘れ去られたのは、アメリカにかぎらず世界的な傾向といえる。

また、このパンデミックが第一次世界大戦時に起こったにもかかわらず、一般向けの本には世界大戦とスペイン風邪の関係がほとんど記載されていない。第一次世界大戦についての歴史書は多く出回っているが、一般向けの歴史書でスペイン風邪が戦争にどのように影響したかを詳説したものは、ほぼ存在しないといってよい。感染症の歴史書をひもといて初めて、「犠牲となったのが若い兵士たちに多かったことから、大戦が終結するのを早めたといわれる」などの記述にようやく出会うのである。

さて、このスペイン風邪の流行と同時に進行した第一次世界大戦だが、当然、戦場にならなかったアメリカや日本では「戦争景気」に沸き返ったことは想像できる。アメリカの当時の株価を見てみればそれはすぐに分かる。アメリカは国内でスペイン風邪による死傷者を50万人も出していながら株価は上昇し続けている。日本でも45万人が亡くなったが、戦時成金が大儲けをした話はいまに伝えられている。ところが、両国ともスペイン風邪がどれほどその後の社会に痕跡を残したかは、あまり記述されていないのである。

money voiceより

これについて、おそらくアメリカの場合にはヨーロッパ戦線に参加して存在感をしめし、いよいよアメリカの世紀が始まったという高揚が、暗い思い出を消してしまったのだろうと思われる。また、日本の場合にはヨーロッパ戦線にあまり加担しなかったので(まったく参戦しなかったというのは間違い)戦後の高揚はそれほどなく、1923年の関東大震災での悲惨な記憶のほうが鮮明になったのではないかと推測できる。

つまり、世界中にスペイン風邪が蔓延し、第一次世界大戦が継続し、さらにロシアでは革命が起こっている間、アメリカや日本では好景気に沸き立っていた。戦争の末期にはスペイン風邪が、大戦で死んだ若者たちの数より、多くの死者を生み出していたのに、それは戦争による惨禍と重なってしまい、スペイン風邪自体の脅威と悲惨のイメージが薄らいだ可能性がある。

戦場そのものとならない限り、これまでの人類の経験では、多くの地域で戦争景気に沸く。それは戦争当事国の場合、勝利のために青天井の財政出動が行われて、際限のない生産拡張の幻想に浸ることになるからだ。また、戦場から距離のある国の場合には戦争特需が生まれ、ひたすら軍需物資の生産につぐ生産が続行されるので、そのときには好況そのものといってよくなる。

アメリカでは政府が、FRBから巨額の戦費を借入れ、大量の紙幣を増発した。英国はさまざまな公債を起債し、政府紙幣を発行した。ドイツの場合は政府短期証券、国債、紙幣の増発が行われた。軍事費の対GDP比は、アメリカが13%、英国が38%、ドイツが53%に達した。

軍事支出による好況は、第二次世界大戦のときのアメリカが典型的で、当時の経済政策を担当した役人たちは「こんなにうまくいって、本当にいいのだろうか」と歓喜したといわれる。1939年から1945年までの間に、アメリカ国民の消費は平均して11%も上昇している。戦線に繰り出された兵士でない者にとっては、その点だけみれば「ハッピーな時代」だったのである。

この軍事的ケインズ主義の経済は、ある種の「禁じ手」ではあるが、いざとなったらすべてを解決する方法とされていくようになる。ベトナム戦争の最初のころの米国経済もそうだったし、1980年代のレーガン政権の経済政策も、ソ連との対決を前提に支出を拡大し減税を断行したのだから、同じく戦時経済だったのである。

こんなことは資源大国アメリカだから成立した「蕩尽経済」である。富をあっという間に消尽するインディアンの儀礼から、ウェブレンという経済学者が述べたように「ポトラッチ」の経済なのだ。しかし、第一次世界大戦後のヨーロッパ諸国はそんなことは不可能であり、敗戦国であったドイツがハイパーインフレとなっただけでなく、戦勝国のフランスも300%の高インフレに陥り、同じく戦勝国だった英国も急速にかつての帝国としての力を失っていく。

この間、第一次世界大戦の後始末とされたヴェルサイユ会議が開かれ、このとき主導的な役割を果たしたアメリカのウッドロー・ウィルソンが、途中でスペイン風邪に感染し、会議の後半は寝たきりだったことを知っている人は少ない。また、フランスの詩人アポリネールやドイツの社会学者ヴェーバーがスペイン風邪で死んだことも、あまり話題とはならないが事実である。

もうすでに長くなっているので、この先は次回にするが、こうした軍事ケインズ主義あるいはポトラッチ経済は、実は、第一次世界大戦という「総力戦」が残した現代世界への「遺産」なのである。いかに多くの若者の命を失っても、総力をあげて戦時経済を断行したので、そのときの経済的課題もパンデミックも克服できた。しかし、それが大量の死との引換えであったことは、語らないことにする。

もちろん、繰り返しになるが、そんなことができるのは図抜けた資源大国だけであり、また、軍事・政治的に他に優越していなければ不可能である。しかし、このとき生まれたポトラッチ経済への期待はいまも尽きない。ポトラッチをいくらやっても、それが戦争抜きであって、経済の落ち込みから立ち直るためなら、許されるというわけだ。今回は、この「禁じ手」を使った後には、バブルとその崩壊が必ず来るということだけ書いておくことにする。

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