父と息子の対決を包み込むあたたかい風；『ふたりのマエストロ』の颯爽とした女たち

『ふたりのマエストロ』（2022・ブリュノ・シッシュ監督）

映画評論家・内海陽子

　すぐれた技量や業績を誇る人が必ずしも人格高潔というわけではない。重大な悪事を働くところまでは至らないにしても、ちょっとした性格上の欠陥を持つというのはよくあることだ。ましてや、世界的に名の知られた指揮者ともなれば、技芸に磨きをかけることが優先され、その欠陥部分の多くを他者が補うことが普通になっているだろう。だが他者に補ってもらったり、修復してもらったりできないのが親と子の仲である。

　世界的人気を誇る指揮者、ドニ・デュマール（イヴァン・アタル）は、フランス音楽界の最高峰「ヴィクトワール賞」を受賞したにもかかわらず、そのスピーチは皮肉たっぷりだ。何か心に引っ掛かっているものがあるようで、それは父親のフランソワ・デュマール（ピエール・アルディティ）が観客席に不在であることでわかる。フランソワも高名な指揮者で、どうやら彼は息子ドニの栄えある受賞を喜ぶ気持ちになれないらしい。父と子は長年の宿命のライバルなのである。

　そこへ運命の女神はさらなる意地悪な仕掛けをする。オーケストラの団員たちを前に不機嫌を隠さないフランソワに電話がかかり、なんと、イタリア、ミラノ「スカラ座」の音楽監督就任の打診である。空に舞い上がるような幸福を存分に味わった彼が帰宅すれば、家族が彼の誕生日祝いの席を調えて待っている。ドニの受賞はしゃくに障るが、自分は40年間夢見たミラノ「スカラ座」の音楽監督になるのだ、という喜びで胸がはちきれんばかりで、息子のくもった表情も、家族の気遣いの表情も目に入らない。

　いい年をして、まだまだ子供っぽく自己中心的なのはドニも同じだ。「ヴィクトワール賞」受賞の喜びに水を差すのが、父のミラノ「スカラ座」音楽監督就任だと言わんばかりの態度で、これには恋人のヴィルジニ（キャロリーヌ・アングラーデ）も彼をなだめるのにうんざりする。ところがその翌日、父への就任依頼がまちがいで、本当はドニへの就任依頼だとわかる。ここで彼が「そうか、やったぞ」とばかりに喜べるならわかりやすいコメディになるが、ここでドニは父の胸の内を思いやり、不快な表情をするのである。

　このあたりのドニの心の揺れ動きが人間的でよくわかる。わかりやすい美男とはいえないイヴァン・アタルの困り果てた表情は多くを語り、才能のある一族の一員として生まれた者の憂愁を漂わせる。考えてみれば「スカラ座」の総裁は、電話すべき相手を間違えた秘書に代わって自分が事態を収拾すべきなのに、すべてをドニに押し付ける。彼の高圧的な態度にドニが怒り、就任を断ったらどうなるだろうと思うが、そういうことは起こらない。総裁はドニの肩にそっと手を置くだけである。

　どうやらこの総裁と秘書は愛人関係にあるようで、それなら秘書としての能力不足もよくわかる。彼女が晴れの席に胸が大きくあいた華麗なドレス姿で現れるのにぎょっとするが、この映画ではそれはよくあることのように流される。考えてみれば、ここでは男女関係はかなりゆるやかである。フランソワと妻は事実婚のままのようだし、ドニはエージェントのジャンヌ（パスカル・アルビロ）との間に息子がいる。親子関係は切っても切れないが、男女関係は「お察しください」というレベルであり、そういうものなのだろう。

　天下の「スカラ座」を舞台にしたクライマックスはそれなりの見ものであるが、この映画が見つめるのは、微細に揺れ動く二組の父と子、声高にものを言わない男と女である。しかもそれは強い視線ではなく、やわらかい風のようにあたたかく、ときどきひんやりする。それを洗練と呼んでもいいが、この洗練の先に見えるのは終焉である。二人のマエストロのうち、より中心になるのはフランソワだ。彼が「スカラ座」音楽監督就任の喜びを胸に歩く黄昏の街、老いた身体でゆっくり登る長い階段、そしてクライマックスの後、去って行く後ろ姿。この映画は誰にでも訪れる終焉を、静かにやさしく見つめる。

　そのやわらかいまなざしは多くが女たちに託されている。フランソワからの50年目のプロポーズを愛らしい表情で受ける妻役のミュウ＝ミュウ、太鼓を叩くドニのお茶目な求愛に困り果てたように応えるヴィルジニ役のキャロリーヌ・アングラーデ、そしてドニを見守り、背中を押すジャンヌ役のパスカル・アルビロ。男たちはいつまでも子供っぽいが「だから私たちが要るのよ」とでも言いたげに、女たちはいつも颯爽としている。

●２０２３年８月１８日より公開

内海陽子プロフィール

１９５０年、東京都台東区生まれ。都立白鷗高校卒業後、三菱石油、百貨店松屋で事務職に従事。休みの日はほぼすべて映画鑑賞に費やす年月を経て、映画雑誌「キネマ旬報」に声をかけられ、１９７７年、「ニッポン個性派時代」というインタビューページのライターのひとりとしてスタート。この連載は同誌の読者賞を受賞し、「シネマ個性派ランド」（共著）として刊行された。１９７８年ころから、映画評論家として仕事を始めて現在に至る。（著者の近著はこちら）