娑婆は我慢の連続、でも空は広い;西川美和監督の『すばらしき世界』は温かく冷たい

『すばらしき世界』(2021・西川美和監督)

 映画評論家・内海陽子

 飛び上がるほど嬉しいことがあった主人公が街を疾走しながら「シャブうったみたいだあ!」と口走る。彼の幸福を喜びながら、この映画そのものが、わたしにとっては「シャブうったみたい」だなあと思う。観ていると身体がしゃっきっとする。しゃきっとして怖いものがまったくなくなるわけではないが、世の中で大事なことは何かがわかったような気になり、少しシャープな眼を持ったような夢心地になる。

 主人公の三上正夫(役所広司)は殺人罪で刑務所に収容され、13年後に満期出所した。14歳で少年院に入って以来、外の世界で過ごした期間より、収容されていた期間のほうが長い五十男だ。身元引受人の弁護士・庄司(橋爪功)と妻の敦子(梶芽衣子)が彼を温かく迎え、住むところも決まり、彼は刑務所内で鍛えた裁縫の技術で食べていきたいと願うが、そう簡単ではない。やむなく生活保護を申請するが、屈辱感がつのり高血圧の発作を起こしてぶっ倒れる。医師に絶対安静を命じられ、彼の社会復帰は暗礁に乗り上げる。

 刑務所内でも問題児だった三上は、身分帳という受刑者の経歴をつづった書類を克明に書き写しており、それは積み上げれば1メートルを越していた。そんな三上に目を付けたのがテレビプロデューサーの吉澤(長澤まさみ)で、うだつの上がらない津乃田(仲野太賀)にドキュメンタリー番組の制作を依頼する。作家志望の津乃田は気乗り薄だったが、生活のために引き受け、次第に三上の人生に興味を覚え始める。よく言えばまっすぐな性格なのだが、いったん激高すると止まらない三上は、正当防衛と判断されそうな事件でも処罰されてしまう。暴力の限度を知らないし、裁判の駆け引きも知らないからだ。

 冒頭、旭川刑務所を出所する際、刑務官が「短気おこしちゃだめだよ」とやさしく言う。わたしの中でこの言葉が呪文のようにリフレインし、いつ彼が切れるか、我慢しおおせるか、そればかりを考えて胸の鼓動が早くなる。それというのも三上は非常に人好きのする男で、演じる役所広司によって明るく無垢なイメージを与えられ、彼の人生がどうなるかが、観客にとって一大事になるからである。庄司夫妻や津乃田に加え、スーパーの店長・松本(六角精児)も親身になって彼とつきあい、余計なことを言って彼を怒らせもするが、松本自身は我慢する。三上をやっかいな人物と見なしたケースワーカー・井口(北村有起哉)が、職務を超えて三上の就職活動に心をくだく様子も見ていて快い。

 つまりわたしは完全に三上を応援する善意の人々と一体化してしまう。だから、行き詰った彼が昔の兄弟分を頼って東京から九州へ向かうシーンで、こわいほど美しい東京タワーの夜景が映し出されると、これがこの世の見納めのように思えて軽い絶望感を覚える。この瞬間、強烈に三上の人生に共鳴してしまい、彼が元の極道の世界に戻ってしまったら、わたしもダメになりそうだと思う。

 しかし幸か不幸か、兄弟分、下稲葉(白竜)の組は末期的状況にあり、精一杯見栄を張って三上を歓待するが、彼に活躍の場を与えられるはずもない。暇を持て余して釣りから帰った三上は、組に警察の手が回ったと知っていきり立つが、下稲葉の妻・マス子(キムラ緑子)に押しとどめられ、祝儀袋を押し付けられる。「娑婆は我慢の連続、でも空は広い、と言いますよっ」。彼女に引導を渡され、へっぴり腰で逃げ出す三上を追いながら、わたしも助かったと思い、極道の妻の気働きに頭を下げる。

 極上のサスペンスが待つ終盤には触れることができないが、見終えると、三上を支えて応援する善意の人々の姿が脳裏に強く残る。多くが感動的な表情なのだが、時がたつとそれが徐々に変容していく。「俺がなんか書いて残すから、もう元に戻んないでくださいよ」と涙ぐみながら訴える津乃田も、かっとなったら「私たちの顔を思い出して」と励ます敦子も、三上のことを心底思いながら、やはり自分の人生が最優先である。当然だからそこまで考える必要もないが、この映画は、そこまで考えるようにと観客を見つめ返すのである。

いまだかつて凡作を放ったためしがない西川美和監督が、またしても緊張感に満ちた厳しいドラマを突きつける。カメラがゆっくり見上げる広い空は限りなく静かで冷えている。

すばらしき世界/2月11日(木・祝)全国公開/配給:ワーナー・ブラザーズ映画/©佐木隆三・2021「すばらしき世界」製作委員会

内海陽子プロフィール

1950年、東京都台東区生まれ。都立白鷗高校卒業後、三菱石油、百貨店松屋で事務職に従事。休みの日はほぼすべて映画鑑賞に費やす年月を経て、映画雑誌「キネマ旬報」に声をかけられ、1977年、「ニッポン個性派時代」というインタビューページのライターのひとりとしてスタート。この連載は同誌の読者賞を受賞し、「シネマ個性派ランド」(共著)として刊行された。1978年ころから、映画評論家として仕事を始めて現在に至る。(著者の近著はこちら

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