『テノール! 人生はハーモニー』の愛と悲しみ;思う相手に心が届く瞬間

『テノール! 人生はハーモニー』(2021・クロード・ジディ・ジュニア監督)

 映画評論家・内海陽子

 手塩にかけて育てるという言葉がある。あらゆる分野で働く有能な人々、多くの芸人や芸術家もまた、手塩にかけて育てられる。そこには育てる者の発見の喜び、追体験の喜びがあると同時に、育てられる者の戸惑いやいくつもの困難があり、それを克服する喜びがある。そうやって育てられた者が、心身にたくわえた喜びを世界に向かって堂々と発信するのがこの映画のクライマックスである。それは、受け手である観客の大きな感動を吸い込み、また新たな発信力をみなぎらせる。

 舞台はパリ。“ケチなラッパー”と自分を軽く卑下するアントワーヌ(MB14)は、経理の勉強をしながら、寿司の出前のアルバイトをしている。ある日、オペラ座への出前を頼まれて行けば、恵まれた階層の若者たちがオペラの授業を受けており、高慢な青年マキシム(ルイ・ド・ラヴィニエール)に侮辱される。ラップの作詞で鍛えた話法で言い返し、仕上げにオペラの物まねをすると、周囲は唖然とし、居合わせたオペラ教師のマリー(ミシェル・ラロック)が目を輝かせる。

 チャンスがやって来たと観客は思うが、アントワーヌはそうは思わない。彼の兄ディディエ(ギョーム・デュエーム)は格闘技の賭け試合で生計を立てている気のいい男で、スラムの一画で親分風を吹かせて弟を守っているつもりだ。頭のいいアントワーヌは兄の期待を理解しつつも現状を脱したいという気持ちを抱えている。歌唱をちょっと褒められていい気になるほどうぶではない。そんな彼をマリーはオペラ座の舞台裏へ連れていき、テノール歌手ロベルト・アラーニャ(本人)の練習風景を見せる。

 オペラ座の舞台と壮麗な客席が大きく映し出されると、オペラに興味のないわたしでも胸が高鳴るくらいだから、自分に才能があると告げられたアントワーヌの胸がときめかないはずがない。ロベルト・アラーニャはマリーに恩義があるらしく、アントワーヌと合唱までしてその場を盛り上げ、彼の才能に太鼓判を押す。勢いづいて自分のクラスの生徒にするとまで決めてしまうマリーの性急さには驚くが、それにはもう一つ理由があることが、のちに明らかになる。

 さて、問題は兄のディディエと仲間たちのことだ。授業が始まり、アントワーヌは金持ち娘のジョセフィーヌ(マリー・オペール)に興味を持たれ、彼女に引き回されているうちに、親兄弟や仲間たちが隠しておきたい存在になって行く。親友である勇ましい女子サミア(マエバ・エル・アロウシ)や、バイト仲間でもあるひょうきんな男子エリオ(サミール・デカッツア)にもよそよそしい態度をとるようになる。わたしはすでにオペラ座の舞台を見ているので、早く才能の全開を見せてほしいという思いが募るが、よく見れば、彼の兄も親友も仲間もラップの対戦相手も生命力があり、情感あふれるいい面構えである。彼らの醸し出す生活感の先にオペラ座の舞台がある、という大事なことがわかってくる。

 そしてこの映画では手塩にかけて育てる者が真の主人公だと思えてくる。ワイングラスをかたむける姿がじつに素敵なマリーが、調子を崩してしまったアントワーヌの「ここは自分の居場所じゃない気がする」という泣き言を静かに聴き、自分のことを語る。彼女はいびつな家庭で育ち、愛情に飢えていたと言い、歌手の仕事への愛に支えられてここまで来たと言う。オペラ座とそこに関わる人々が彼女の家族なのだ。アントワーヌは、そんな彼女がついに見出した最高の逸材なのだ、ということが穏やかな語りから感じ取れる。

 演じるミシェル・ラロックは、美しいものを愛でる喜び、自分が思う最高のものを手にする喜びを大事にする女性を、軽快さと厳格さの絶妙なバランスで見せる。ピンヒールを履いて授業に出てくる様子なども素晴らしく、自分の選んだ人生を十分に楽しんでいる姿がまことにすがすがしい。ミシェル・ラロック自身が歩んできた道に自信を持っていることがよく表れている。マリーが劇場の支配人に言う「結末が見えている闘いには挑まない」と言うセリフが何を意味するかは想像がつくだろうが、そのことを追及しない作劇もまた好ましく、さりげない悲しみがクライマックスにほどよい陰りを添える。

人生に勝ち負けはつきものだが、人生は勝ち負けではない。思うべき相手に心が届く瞬間、その心にあふれる愛と達成感。わたしたちはそういうものを大事に生きている。そういうものがあるかぎり生きていける。

●2023年6月9日より公開

内海陽子プロフィール

1950年、東京都台東区生まれ。都立白鷗高校卒業後、三菱石油、百貨店松屋で事務職に従事。休みの日はほぼすべて映画鑑賞に費やす年月を経て、映画雑誌「キネマ旬報」に声をかけられ、1977年、「ニッポン個性派時代」というインタビューページのライターのひとりとしてスタート。この連載は同誌の読者賞を受賞し、「シネマ個性派ランド」(共著)として刊行された。1978年ころから、映画評論家として仕事を始めて現在に至る。(著者の近著はこちら

 

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