鳥肌が立つほどの軽やかさと上品さ;中井貴一の『大河への道』は裏切らない

『大河への道』(2022・中西健二監督)

 映画評論家・内海陽子

 俳優の中井貴一を信頼している。特に、人の思惑の板挟みになり、やむを得ず奮闘する中間管理職の中井貴一を信頼している。小泉今日子と共演したドラマ『最後から二番目の恋』の鎌倉市役所職員が板に付いていて忘れられないが、今回は千葉県香取市の市役所職員である。総務課の主任とあって、相変わらず板挟みで苦労しており、わたしの信頼感はいやが上にも高まる。それは最後まで裏切られることはない。

 香取市役所観光課の課長・小林(北川景子)のプレゼンテーションに茶々を入れたことで詰め寄られ、勢いで「伊能忠敬の大河ドラマ」誘致を提案したところ、それが採用され、池本はプロジェクトリーダーにされてしまった。千葉県知事(草刈正雄)のご指名で、大御所脚本家の加藤(橋爪功)を訪ねるが、引退同然の加藤はがんとして話を聞こうとしない。ふとしたことで心を開いた加藤を「伊能忠敬記念館」に連れ出すと、彼は「大日本沿海輿地全図」を見て腕をさする。「書くためには鳥肌が立たないと」と言っていた彼の鳥肌が立ったのだ。

 ほっと安堵したのもつかの間、加藤は、伊能忠敬が地図完成の3年前に亡くなっていたという事実を知って衝撃を受け「伊能忠敬の大河ドラマ」の脚本は書けないと言う。困惑した池本と部下の木下(松山ケンイチ)の前で加藤が語り出すと、いとも自然に1818年の江戸に舞台が移る。タイムスリップしたわけではなく、再現ドラマ風でもない。現代の市役所や周囲の面々がそのまま、伊能忠敬の測量隊の面々になって登場する。池本は、江戸幕府天文方の高橋景保になっており、案の定、伊能忠敬の死を隠して地図を完成させたい人々と、増え続ける莫大な経費を節減したい幕府側の板挟みになる。

 誰かの話に聞き耳を立てるとか、誰かの行動から目が離させなくなるというのは、その人の思いを追体験したくなるからだ。わたしは、加藤の話す内容に聞き入る池本の気持ちを共有したいという思いが募り、彼が高橋景保として登場することに何の違和感も覚えない。タイムスリップしたとか、実は先祖が高橋景保だったとかいう言い訳めいた描写はいらない。何かを追体験したいと思えば自分がその人物になる、それは当然のことで、それが中井貴一だからおもしろくなる。それもまた当然のことである。

 思えば、伊能忠敬の生地の浜辺を歩く池本と加藤を俯瞰でとらえた映像が広がり、うっとりするような長い海岸線が現れたとき、わたしは「大日本沿海輿地全図」の一部を肌で感じ、伊能隊の一員に引き込まれてしまったのだろう。一歩、一歩、手のかかる測量を飽くことなく続け、日本全体を把握し続けること。そういうことに心を奪われてしまったら、そのために噓をつきとおすこともまた喜びとなる。幕府勘定方の追求をぬらりくらりとかわし、密偵(西村まさ彦)をだましとおすことなど、大事の前の小事である。

 原作は立川志の輔の落語だが、のびのびとした展開は明らかに映画世界のものになっている。板挟みになる人間を演じて幾星霜、その表現が常にみずみずしい中井貴一、彼にじゃれつく子犬のように軽快な松山ケンイチ、白い腕のほくろが実にあだっぽい北川景子、名人芸の趣の橋爪功、機転の利く下女としてクルクル働く岸井ゆきの、騙されるべきところでちゃんと騙されてくれる密偵の西村まさ彦。演技のアンサンブルがみごとで、中だるみすることなく、くどくなることもない。

 感動の涙でティッシュペーパーを山と積んだ木下を前に話を終えた加藤が、つまり「高橋景保の大河ドラマ」なら書けると言うところで笑顔になれるかどうかが、好悪の分かれ目かもしれない。脚本家・加藤は、伊能忠敬という偉人その人ではなく、師亡きあと、その遺志を継いで地図を完成させた伊能隊の人々の奮闘に鳥肌が立ったのである。世の中の大仕事は、一念発起した一人の人間の力でできるものではなく、その人間に突き動かされた多くの人々の力の結集によるものである。当たり前だが、それでは大河ドラマにならない。しかもその中心人物の高橋景保は、なんと大阪の人である。

 さて、この先どうしたらいいだろう。ここで池本は、江戸の高橋景保を追体験した人間ならではの粘りを見せるのだ。彼の選んだ道は「継続」である。「伊能忠敬の大河ドラマ」誘致を諦めることなく、彼独自の道を開拓すること、そのために長い努力を続けること。その決意表明であるラストシーンの軽やかさ、ひょうきんさ、上品さは、中井貴一ならではのものである。ぜひ、ご自身の眼でお確かめいただきたい。

◎2022年5月20日より全国公開

内海陽子プロフィール

1950年、東京都台東区生まれ。都立白鷗高校卒業後、三菱石油、百貨店松屋で事務職に従事。休みの日はほぼすべて映画鑑賞に費やす年月を経て、映画雑誌「キネマ旬報」に声をかけられ、1977年、「ニッポン個性派時代」というインタビューページのライターのひとりとしてスタート。この連載は同誌の読者賞を受賞し、「シネマ個性派ランド」(共著)として刊行された。1978年ころから、映画評論家として仕事を始めて現在に至る。(著者の近著はこちら

 

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