悩んで悩んで悩みぬく竹野内豊と黒木華;『イチケイのカラス』は上質なエンターテインメント

『イチケイのカラス』(2023・田中亮監督)

 映画評論家・内海陽子

 そもそも「イチケイのカラス」がテレビドラマのときから、竹野内豊はいかめしい裁判官というイメージから遠く離れており、わたしは別のテレビドラマ「素敵な選TAXI」(2014~16)を思い起こしていた。時間を巻き戻すことのできるタクシー運転士の竹野内豊が、人生の選択に失敗した乗客にもう一度チャンスを与え、幸福に近づく道しるべの役割を果たす。おとぼけの効いた軽いタイムマシンものだ。

 このタクシー運転士自身が、何をどう選択したのか裁判官になり、刑事事件を裁くという設定なら「イチケイのカラス」になるかと勝手に想像した。その彼の前に、理屈っぽいエリート裁判官が登場して、襟を正さざるを得なくなる。この裁判官は原作漫画では男性だが女性に変更され、黒木華が演じることでニュアンスがかなり変わり、バディものとしても評判になった。

 入間みちお(竹野内豊)は、しばしば裁判所主導の現場検証「職権発動」を行い、刑事事件を裁いてきた。ごく普通の会社員ですら、勝手気ままは許されないというのに、裁判官が奔放に生きているのだから“左遷”されるのは当たりまえ。今回、入間がやってきたのは岡山県瀬戸内の小さな町で、イージス艦と漁船の衝突事故で亡くなった船長の妻が、防衛大臣(向井理)を包丁で切りつけようとした事件を担当する。彼女は衝突事故の真相が隠されていることを憤り、真相が明らかにされるよう訴える。

 いっぽう東大法学部卒の裁判官、坂間千鶴(黒木華)は「裁判官他職経験」の制度を利用し、やはり岡山県の小さな町の法律事務所に弁護士として在籍している。手がけるのは優良ドライバーの老婦人が起こした自動車事故。婦人は地元の有力企業「シキハマ」の廃棄物が路上に散乱したことが原因だと主張し、やがてこの事件と前記の事件が繋がっていることが明らかになる。入間と坂間は互いに隣町にいることを知ってうんざりしながらもどこかときめくものを感じているような……よくある展開である。

 この二人のキャラクターがだいぶ誇張されたものなので、現実味を与えるために用意されたと思われる人物が月本信吾(斎藤工)、いわゆる人権派弁護士だ。彼は坂間に対しては、現実のさまざまな矛盾を教え込む指導教官のような存在になる。坂間は彼にほのかな恋心を抱くようになり、彼はふと悪い男の顔を見せもする。入間に対しては、現実の泥水をたっぷり飲んだ存在として威圧感を見せ、これには入間も本気で立ち向かうことになる。ある意味で、入間を俗世間に放ったような存在と言えるし、両者は同じ人物の違う側面であると言えるだろう。

 全体の印象としては、アメリカの田舎町を舞台にした探偵ミステリーのような趣があり、脇役の配置が贅沢なことから、謎とき部分に上等なスリルと余情がある。たとえば「シキハマ」の産業医である小早川悦子(吉田羊)は新米弁護士の坂間と“姉妹のように仲よくなる”が、見ようによってはいかにもクサイ。彼女の思惑は何か。役場職員の小早川輝夫(宮藤官九郎)は役場の地域推進課職員で、坂間を町に呼び寄せた中心人物。難病の子のために奔走しているが、難病の原因を知っている。「シキハマ」の顧問弁護士、三田村武晴(尾上菊之助)は切れ者で、坂間をきりきり舞いさせるが、のちに思いがけない一面を見せる。

 この物語のキーワードのひとつが坂間の「ありあまる正義感を持て余しているので」だが、この表現にどんどん苦みが加わっていくのが坂間の成長物語としての見どころである。単純に思えた民事事件が、町の歴史に関わる大きな隠ぺい事件をあぶり出すことになり、人間の複雑さと善良さ、悪賢さ、ひいては“正義とは何か“という根本の問題を見つめ直さなければならなくなるからだ。それでも彼女は入間の助言に従い「悩んで悩んで悩みぬいて」自分自身の結論を導き出そうとする。この物語は、その経過そのものを、わがこととして味わうように穏やかに提唱する。

 うっかりすると、眉間に皺寄せた社会派映画になりそうなところを、のびのびとエンターテインメントに抑え込むところに、作り手のまっとうな野心を感じる。救いのない陰惨な社会派ドキュメンタリーやドラマを横目に、多くの矛盾を抱えた事件をエンターテインメントとして提供すること、それに苦慮することもまた映画の役割のひとつである。映画作家もまた、裁判官と同じように「悩んで悩んで悩みぬいて」物語を作る。俳優もまた「悩んで悩んで悩みぬいて」人間を作る。わたしたちはそこから抽出されたエキスを味わい、上質な想像力を鍛えたいものである。

●1月13日より全国公開中

内海陽子プロフィール

1950年、東京都台東区生まれ。都立白鷗高校卒業後、三菱石油、百貨店松屋で事務職に従事。休みの日はほぼすべて映画鑑賞に費やす年月を経て、映画雑誌「キネマ旬報」に声をかけられ、1977年、「ニッポン個性派時代」というインタビューページのライターのひとりとしてスタート。この連載は同誌の読者賞を受賞し、「シネマ個性派ランド」(共著)として刊行された。1978年ころから、映画評論家として仕事を始めて現在に至る。(著者の近著はこちら

 

内海陽子のほかのページもどうぞ

『愛がなんだ』:悲しみとおかしみを包み込む上質なコートのような仕上がり

『バースデー・ワンダーランド』:情感とスピード感に満ちた贅沢なひととき

『家族にサルーテ! イスキア島は大騒動』:けっして自分の生き方を諦めない大人たちを描きぬく

『町田くんの世界』:熱風がユーモアにつつまれて吹き続ける

『エリカ38』:浅田美代子が醸し出す途方に暮れた少女のおもかげ

『ファイティング・ダディ 怒りの除雪車』:本作が断然お薦め! 頑固一徹闘うジジイ

『DANCE WITH ME ダンス ウィズ ミー』:正常モードから異常モードへの転換センスのよさ

『記憶にございません!』:笑いのお座敷列車 中井貴一の演技が素敵!

熱い血を感じさせる「男の子」の西部劇

RBGがまだ世間知らずだったとき:ルース・B・ギンズバーグの闘い

『劇場版おっさんずラブ LOVE or DEAD』常に新鮮で的確な田中圭のリアクション

俺はまだ夢の途中だぁ~!:草彅剛の持ち味満喫

相手を「発見」し続ける喜び:アイネクライネナハトムジーク

僕の人生は喜劇だ!;ホアキン・フェニックスの可憐な熱演

カトリーヌ・ドヌーヴの物語を生む力

悲しみと愚かさと大胆さ;恋を発酵させるもうひとりのヒロイン

獲れたての魚のような映画;フィッシャーマンズ・ソング

肩肘張らない詐欺ゲーム;『嘘八百 京町ロワイヤル』

あったかく鼻の奥がつんとする;『星屑の町』の懐かしさ

高級もなかの深い味わい;『初恋』の三池崇史節に酔う

千葉雄大の孤軍奮闘にハラハラ;『スマホを落としただけなのに 囚われの殺人鬼』

成田凌から飛び出す得体のしれないもの;ヨコハマ映画祭・助演男優賞受賞に寄せて

関水渚のふてくされた顔がいい;キネマ旬報新人女優賞受賞

情熱あふれる歌・踊り・群舞;『ヲタクに恋は難しい』の高畑充希になり切る

受賞者の挨拶はスリリング;キネマ旬報ベスト・テン 続報!

年を取るってすばらしいこと;波瑠と成田凌の『弥生、三月』

洗練された泥臭さに乾杯!;『最高の花婿 アンコール』

生きていると否応なく生じる隙間;『街の上で』若葉竜也の「素朴」さに注目!

ヒロインを再現出させる魔術;ゼルウィガーの『ジュディ 虹の彼方に』

わたしはオオカミになった;『ペトルーニャに祝福を』

心が晴れ晴れとする作品;『五億円のじんせい』の気性のよさ

「境目」を超え続けた人;大杉漣さんの現場

老いた眼差しの向こう;『ぶあいそうな手紙』が開く夢

オフビートの笑いが楽しい;『デッド・ドント・ダイ』のビル・マーレイを見よ

現代によみがえる四人姉妹;『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』

夜にたたずむ男の見果てぬ夢;『一度も撃ってません』の石橋蓮司に映画館で会おう

長澤まさみの艶姿を見よ!;『コンフィデンスマン JP プリンセス編』は快作中の快作

幸運を呼ぶ赤パンツ;濱田岳と水川あさみの『喜劇 愛妻物語』

刃の上を歩くような恋;『燃ゆる女の肖像』から匂い立つ輝き

どことなく滑稽でどことなく怖い;『星の子』にみる芦田愛菜の包容力

挑戦をやめない家族;『ヒトラーに盗られたうさぎ』でリフレッシュ

おらおらでひとりいぐも;田中裕子の『おらおらでひとりいぐも』

弱い人間への労りのまなざし;波留の『ホテルローヤル』

内海陽子「誇り高き者の確執、愛憎」;佐野亨編『リドリー・スコット』に寄稿しました

小粋な女性のサッカー・チーム;『クイーンズ・オブ・フィールド』で愉快になれる

娑婆は我慢の連続、でも空は広い;西川美和監督の『すばらしき世界』は温かく冷たい

感情を自在に操ることのできる演技者・水川あさみ;ヨコハマ映画祭・主演女優賞受賞によせて

最高の「嘘っぱち!」物語;『騙し絵の牙』の大泉洋は期待通りの全開

チャーミングな老人映画;『カムバック・トゥ・ハリウッド‼』を見逃すな

「打倒! まとも」が新しい世界を運んでくる;『まともじゃないのは君も一緒』の成田凌を深読みする

役所広司の醸し出す「歴史」;『峠 最後のサムライ』のぬくもり

異様な細部がすばらしい『ベルヴィル・ランデブー』;おばあちゃんの闘争は続く!

恋ゆえに渡る危ない橋『ファイナル・プラン』;リーアム・ニーソンからの「夢のギフト」

王道を行く人情コメディ;やっぱり笑える『明日に向かって笑え!』

「君は世界を守れ、俺は君を守る」;初々しい『少年の君』のチョウ・ドンユイ

漫画家夫婦の不倫ゲームを楽しむ;黒木華と柄本佑の『先生、私の隣に座っていただけませんか?』

未来についての勇気の物語;『愛のくだらない』の藤原麻希がみせる推進力

ムロツヨシの「愚直」な演技力;『マイ・ダディ』の聖なる滑稽さ

ジェイソン・ステイサムの暗く鈍い輝き;『キャッシュトラック』の「悪役」が魅せる

底なし沼に足を踏み入れたヒロイン;『アンテベラム』の終わらない感情

早すぎる時間の中での成長;『オールド』にみるシャマラン監督の新境地

二人はともに優しい女房のよう;西島秀俊と内野聖陽の『劇場版 きのう何食べた?』

おどおどしつつも男の意気地が光る!;中谷美紀と田中圭の『総理の夫』

生き生きとした幸福のヒント;加賀まりこが母を演じる『梅切らぬバカ』

前進する者への確かなエール;リーアム・ニーソンの『マークスマン』

小さな人間にも偉大なことはできる;妻の仇討ち物語『ライダーズ・オブ・ジャスティス』

AIを超える人間の誠意;『ブラックボックス 音声分析捜査』の最後に残る希望とは

体全体で感じる音楽の喜び;『CODA あいのうた』の家族たち

胸がすく女殺し屋の戦闘シーン;『ガンパウダー・ミルクシェイク』から目を離すな!

臨床心理士が逆に心を解読される恐怖;『カウンセラー』がみせる短編映画の切れ味

深い思いやりをもって吸い付くように伴走する笠松則通の眼;ヨコハマ映画祭・撮影賞によせて

肩の凝らない、いいセーター;今泉力哉監督の『猫は逃げた』は恋のトラブルの高みの見物

隠し味が効いてる『ゴヤの名画と優しい泥棒』;実話の映画化はやっぱり喜劇が最高だ!

田中圭の『女子校生に殺されたい』;目当ての少女を見つけ出せ!

生きることはミステリアス;小林聡美の『ツユクサ』がもつ苦味とおかしみ

奇妙な悲しみをたたえる阿部サダヲが怖い;『死刑にいたる病』が残す余韻

「少女」を演じる宮本信子が温かい;『メタモルフォーゼの縁側』は生きて行く活力を伝える

鳥肌が立つほどの軽やかさと上品さ;中井貴一の『大河への道』は裏切らない

あの世への優雅なダンス;『スワンソング』の心地よい風に吹かれて

人生における美しい瞬間;『セイント・フランシス』の小さな体験

「イエス」で答え「アンド」で繋げる未来;『もうひとつのことば』の初々しい二人

料理が結ぶ恋愛関係;『デリッシュ!』で楽しむ幸福の味

永野芽郁のバンカラ女子がいい;『マイ・ブロークン・マリコ』の確かな手ごたえ

『ドライビング・バニー』は振り返らない:アンチヒーローの正義

正念場を迎えた4つのカップル;『もっと超越した所へ。』のいい加減で深刻な情熱

男がひとりで食べるフルーツパフェの味;『窓辺にて』の嫉妬とおかしみ

生きる上で幸福は花火のよう;『夜、鳥たちが啼く』の晴れやかな世界への出発

阿部サダヲの『アイ・アム まきもと』は温かい;死を通じて人と繋がる静かな高揚感

世界は美しさに満ちている;カンバーバッチの『ルイス・ウェイン 生涯愛した妻とネコ』

近づく旅立つ日;『いつかの君にもわかること』の手応え

弱虫だから輝く『雑魚どもよ、大志を抱け!』;内海陽子が足立紳監督の魅力と「誕生秘話」を語る

悩んで悩んで悩みぬく竹野内豊と黒木華;『イチケイのカラス』は上質なエンターテインメント

永遠性を獲得した異形の少女;『エスター ファースト・キル』が暴く家族の狂気


『女優の肖像』全2巻 ご覧ください

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください