最高の「嘘っぱち!」物語;『騙し絵の牙』の大泉洋は期待通りの全開

『騙し絵の牙』(2020・吉田大八監督)

 映画評論家・内海陽子

 こんなうまい話があるものか、と思いながらもはらはらどきどきして画面から目が離せず、肩入れした主人公や登場人物が、物語の中をすいすい泳ぎ回る姿に陶然となる。これを単なるエンターテインメントと言って片づけるわけにはいかない。吉田大八監督は、熟練の技を誇る建築家のような、名指揮者のような仕事ぶりである。そして人物関係が込み入っているようでも、その関係と個々の思惑がすっきり頭に入る。我ながら知力が向上したのかと思うほどだが、そうではない。すぐれた作家は観客を侮らないし、観客に恥をかかせないのである。

 舞台となるのは大手出版社「薫風社」。創業した伊庭社長の急死を受け、社内には権力争いが起こり、改革派の東松(佐藤浩市)が社長の椅子を得た。社の伝統をになう文芸誌「小説薫風」の新人編集者・高野恵(松岡茉優)は、書店の娘で生一本な性格。大御所作家・二階堂大作(國村準)の祝賀パーティーで、二階堂を前に失言したが、同社のカルチャー誌「トリニティ」の新任編集長・速水輝(大泉洋)に引き抜かれた。そして以前から恵が支持していた新人の応募小説が「トリニティ」に掲載されることになる。その新人作家・矢代聖(宮沢氷魚)はなかなかのイケメンで注目を集め、「小説薫風」の面目は丸つぶれだ。

「トリニティ」は、人気ファッションモデル・城島咲(池田エライザ)を表紙に起用、彼女の小説の連載を目玉のひとつにするが、彼女は熱狂的ファンとの間に重大な事件を起こす。「トリニティ」の刊行をめぐって社内は大もめにもめ、速水は「リスクとリターン」と豪語して東松に説得工作をかけ、強引に「トリニティ」を店頭に並べる。これが前半のハイライトで、こんなこと嘘っぱちだ!と思うが、もうすっかり速水の虜になったわたしはその言葉を飲み込む。速水のバクチは当たり、恵の父親(塚本晋也)の書店に置かれた3冊は売り切れ、彼は客のために他店で購入する。これは恵の本へのこだわりと知識、客への心遣いは父譲りだとよくわかるエピソードで、終盤のどんでん返しの布石のひとつになる。

 原作者の塩田武士が速水役にあてがきしたという大泉洋は、期待通りのリラックスした主演ぶりだが、彼とダブル主演と言っていいのが恵役の松岡茉優で、互いに打てば響くリズミカルな共演だ。いい俳優は相手を読み、先を読むということが画面を突き抜けてこちらに伝わり、すばらしい快感をもたらす。『桐島、部活やめるってよ』(2012・吉田大八監督)で、小意地の悪い女子高校生を演じてくっきりした印象を残した松岡茉優が、8年ぶりに吉田大八作品に戻ってきたわけだが、名女優が天から降りてきたようである。

 わたしが心揺さぶられたのは、とあるピンチに見舞われた速水たちが逃げまどってエレベーターに飛び乗るとき、追ってきた恵を速水が素早く抱きとめるようにエレベーターに引き込むところだ。「おまえはこっちの味方だ」と言わんばかりの速水の情熱がほとばしり、何が何だかよくわからない恵の表情とあいまって、さらりとしたエロティシズムが漂う。原作では速水と恵は男女の関係にあるが、映画ではそういう関係にはない。同志にして好敵手、というスリリングな関係がこの先に待つ。ずっとつややかである。

 速水と恵の関係に限ったことではなく、この映画は原作を大胆に換骨奪胎しており、その度胸のよさには舌を巻くばかりだ。『紙の月』(2014・吉田大八監督)で、ヒロイン(宮沢りえ)の同僚銀行員に扮し、名探偵のような役どころを巧みにこなした小林聡美が、権威ある評論家として登場、ある仕掛けに一役買うなど、原作を大きく離れたところでのびのび遊ばせてもらっている。木村佳乃が鋭角的な頬の線を生かして高慢で有能な「小説薫風」編集長をさっそうと演じるが、ついには敗北を認めて柔らかい表情を見せるところなども、女優の生かしかたに気配りがあり、ひとりひとりのキャラクターへの敬意が感じられる。非常に俗っぽい世界の話なのに、品があるのはそのせいである。

 そういう吉田監督の思いを受け止めたからこそ、全員が一丸となって、この「嘘っぱち!」物語を最高のものに仕上げようと丹精を込めたに違いない。実在する名物編集長の面影がチラリと頭をかすめるし、わたしはその人が苦手だが、そんなことはどうでもよい。本作はおそらく本年度随一の風格あるエンターテインメントとして評判を呼ぶだろう。

◎3月26日(金)全国公開

内海陽子プロフィール

1950年、東京都台東区生まれ。都立白鷗高校卒業後、三菱石油、百貨店松屋で事務職に従事。休みの日はほぼすべて映画鑑賞に費やす年月を経て、映画雑誌「キネマ旬報」に声をかけられ、1977年、「ニッポン個性派時代」というインタビューページのライターのひとりとしてスタート。この連載は同誌の読者賞を受賞し、「シネマ個性派ランド」(共著)として刊行された。1978年ころから、映画評論家として仕事を始めて現在に至る。(著者の近著はこちら

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