生きることはミステリアス;小林聡美の『ツユクサ』がもつ苦味とおかしみ

『ツユクサ』(2022・平山秀幸監督)

映画評論家・内海陽子

 初主演作『転校生』(1982・大林宣彦監督)で外見は女の子、中味は男の子を演じて脚光を浴びて以来、変わらぬ独自のたたずまいを誇るのが小林聡美である。見るからに男心をくすぐるような美女ではないが、現実にはこういう女性が一番もてるのではないかと思う。『かもめ食堂』(2006・荻上直子監督)で自立した女性像を演じてからは、一人で生きているのが当たり前の達観した女のイメージをまとったが、このたびは一人で生きているのが少し辛いという女のニュアンスを醸し出す。それでも媚態はかけらもないのが小林流だ。

 海辺の町の繊維工場に勤める芙美(小林聡美)は、同僚の直子(平岩紙)、妙子(江口のりこ)と仲良しだが、一番の親友は直子の息子の小学生、航平(斎藤汰鷹)だ。ある晩、運転する車に隕石がぶつかり横転、大した怪我はしなかったが、ちょっとショックを受けた。隕石に当たる確率は一億分の一だという航平の解説を真に受けたわけではないが、幸運を念じるように隕石のかけらでペンダントを作った。するとその効果か、交通整理の仕事をする初老の男、吾郎(松重豊)と知り合う。どことなく世捨て人のような雰囲気がある吾郎は、ツユクサの葉を上手に吹いて芙美の心をざわめかせる。バー「羅針盤」のマスター(泉谷しげる)は、そんな二人を面白そうに眺めている。

 隕石事件以外にはたいしたことも起こらないが、じつは、大きな事件は過去に起こっていたということがわかってくる。芙美が断酒会に入るほどの大酒飲みになった理由は失恋ということになっているが、実は違う過去がある。その過去は小さな嘘をいくつも重ねなくてはならないほど辛いものだ。吾郎のほうにも軽々と口にできない過去がある。その過去は甘いロマンスを吹き飛ばしてしまうほどのもので、それを知ってしまった芙美は心中ひそかに打ちひしがれる。その失意をショットグラス一杯の酒をあおることで表現するところがハードボイルドで、その後、泣きっ面などを見せはしない。

 淡々とした口当たりのいい映画のように見せかけて、じつは登場人物の過去の癒えない傷口からは何度も血が噴き出ている。傷ついた感情を多少ともあらわにするのはまだ若い航平くらいで、大人になってしまった人間はおおげさに嘆いたりわめいたりはしない。それがこの映画の登場人物たちに与えられた節度であり、この映画の気位なのである。

 芙美の同僚、直子は再婚で、夫の貞夫(渋川清彦)と航平の仲が気まずいことに気をもんでいる。妙子は亡き夫の法事で寺の坊主に口説かれて浮きたっているが、それがいつまでも続くものとも思っていない。人生に完璧な幸せなどというものがないことを、ある程度の年月を生きた者なら誰もがわかっている。とはいえそこで立ち止まったままでは、生きていることに申し訳が立たないではないかと思ったかどうか、彼らは気を取り直しては少しずつ動き出すのである。

 いまさらながらに、いい俳優たちが顔をそろえたと思う。言葉よりも、ちょっとした表情の変化と間がすばらしく、生きることはミステリアスだと痛感させる。世捨て人のようだった吾郎が実は歯医者だとわかれば、ちゃんと歯医者に見える。松重豊が長身を折るようにして女の口の中を覗き込み、診断を下す。若い恋のようにきれいで切ないだけではない、独特のおかしみが漂い、そこから新しいものが顔を出す。男の過去を知って傷ついた芙美が、歯がうずいたことをきっかけに男が再開した歯科医院を訪れる。大口を開ける。一番弱いところをさらけ出すのは相手を信頼しているからで、ハードボイルドな女の求愛だろう。江口のりこが絶妙に演じる妙子の、恋の経過を知らせる“オウム”のエピソードもビターで気が利いている。

 なにはともあれ人生は続く。芙美と吾郎は何度かのためらいを経て、また一歩前進したようである。今後、さらなるためらいが生じることもあるだろうし、再び激しく後退することもあるかもしれない。それでも何かを仕掛けていこう、いや、仕掛けないではいられないのが恋する者=生きている者のエネルギーである。おにぎりや卵焼きやハンバーグを本当においしそうに食べる芙美という女は、何があっても着実に歩んで行くだろう。身内の幸せを祈るように、この映画に盛大なエールを送りたい。

◎2022年4月29日より全国公開

内海陽子プロフィール

1950年、東京都台東区生まれ。都立白鷗高校卒業後、三菱石油、百貨店松屋で事務職に従事。休みの日はほぼすべて映画鑑賞に費やす年月を経て、映画雑誌「キネマ旬報」に声をかけられ、1977年、「ニッポン個性派時代」というインタビューページのライターのひとりとしてスタート。この連載は同誌の読者賞を受賞し、「シネマ個性派ランド」(共著)として刊行された。1978年ころから、映画評論家として仕事を始めて現在に至る。(著者の近著はこちら

 

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