フク兄さんとの哲学対話(31)カント①まずは入門の入門

これまでの例にないくらい間が空いてしまったが、今回からカントについてフク兄さんと語ることになる。間が空いたのはウクライナ戦争が始まってしまったからだが、もうひとつは、カントというテーマが重いことにもよる。でも、それよりも、間が空いたために、へそを曲げてしまったフク兄さんへの対応が難しいことを考えて、憂鬱になったせいもあった。例によって( )はわたしの独白。

フク兄さん おお、ひさしぶりじゃのう。もう、わしのことなど忘れたのかと思っとったぞよ。(ほら、きたぞ)

わたし そんなことないよ。ウクライナ戦争が始まったので、そっちのほうの投稿が多くなっただけだよ。事態が急速に変わっているからね。それに、カントという人は、近代哲学史において、それこそ「夜空の星」のような存在で、その後の哲学史の展開を方向づけたといわれるので、ちょっと気が重いところもあったんだけれど。

フク兄さん ほう、カントさんはそんなに偉い人なのか。この対話を忘れるほどだから、よっぽどえらいんじゃろうのう。(やれ、やれ)

わたし あ、そうだ、カミサンからあずかってきたものがあるんだ。ほら、これだよ。

フク兄さん おお、『出羽桜 樽酒』ではないか。……こんなもので、わしが機嫌をよくすると思ったら大間違いだぞよ。

わたし そんなつもりはないよ、カミサンが「とってもおいしかったから、フク兄さんにも飲んでいただきたいわ」といってたよ。(あ、少しだけ表情が変わったな)

フク兄さん ま、『樽酒』といってもいろいろあるからのう。いつぞなど、場末の飲み屋に入ったとき『樽酒』とメニューにあったので注文したら、人工的に樽の匂いがつけてあるしろもので、ほんとに往生したからのう。

わたし もちろん、この『樽酒』はそんなことはないよ。めったに手に入らないらしいよ。ま、ともかく飲んでみようよ。(あ、すぐに戸棚から丼を出すんだ)。さあ、さあ……(お、さっと丼が差し出されたぞ)

フク兄さん おっととととと、………ぐび、ぐび、ぐび、ぐび、ぐび、ぐび、ぐび、(そんなに急に飲んだら目が回ってしまうよ)……ぷふぁ~! これは旨い。なんというふくらのある酒じゃ。ぐび、ぐび、ぐび………。お前の嫁は、お前にはすぎた嫁じゃのう。さて、ところで、そのカントさんという人は、本当に偉い人なのか?

わたし それはもちろん大きな存在だね。いわゆる「三批判」といわれる『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』は、哲学に興味のある人ならみんな知っている。最近はウクライナ戦争が始まったので『永遠平和のために』という小著がまた取り上げられるようになったし、高校生でも好奇心が旺盛ならば『啓蒙とは何か』を読んだことのある人は多いだろう。

ふく兄さん 三批判というのは知らんけど、人の批判ばかりしていたんじゃな。わしも「デカンショ、デカンショで半年くらし、あとの半としゃ寝て暮らす~♪」という歌は聞いたことがあるぞよ。デカンショというのは、デカルト、カント、ショーペンファウアーのことらしい。この三人は半年寝て暮らしていたのかのう、ひがしうらやましいのう。

わたし え~と、そういうわけではないけど、カントにもどれば、その三批判のなかでも『純粋理性批判』の登場は、やはり哲学史上のきわめて大きなエポックといえる。この著作でカントは近代哲学への道を拓いたとされる。ひとことでいえば、この世界をあれこれ論じるとされていた哲学を、人間がこの世界を論じられるのは何故かという方向に変えたんだね。批判というのは人間の認識力を批判的に見るという意味なんだ。

フク兄さん ひっく、ふ~ん、それがそんなに偉かったのかのう……。(あ、もう目がうるんでいる)

わたし もっとくだいていえば、この世がどのようにできているかではなくて、この世を認識できるのはなぜなのかを整理してみせたんだ。これは哲学の論じ方を「対象から認識へ」ではなく「認識から対象へ」に変えたとか言われるけれど、カント自身は『純粋理性批判』の第二版序文で、「コペルニクス的な転換をおこなった」と述べている。ポーランドのコペルニクスは、天体の精密な観測から、地球がとどまっていて天体が動いているのではなく、天体がとどまっていて地球が動いているのだと見破った。自分(カント)は哲学において、やみくもに対象となるものを問題にするのではなく、それ以前にまず人間の認識を問題にすべきだと指摘したというわけだね。あれ?

フク兄さん ………あ、寝ていないぞよ、……ほんとうじゃ。(もう、眠いんだな)

わたし そこでカントが取り上げたのは、この対話で5回ほど論じたヒュームの説だったんだ。ヒュームは人間の知性には限界があって、この世のなかの因果関係とか神の存在とかは把握できない。そもそも神の存在の有無を論じることは不可能で、因果関係は経験に基づく想像力によって推論できるだけだと述べたことは、フク兄さんも納得していたよね。こうした知性の限界を無視して、勝手に神や世界について述べるのは「独断論」と呼ばれるんだけど、ヒュームの哲学は「こうした独断論によるまどろみから醒ましてくれた」と、カントは『プロレゴーメナ』という本で述べているんだ。

フク兄さん おお、そうじゃ、ヒュームさんは偉い。え~と、ヒュームさんって誰じゃ?………(もう、だめかな、こりゃ。失敗したなあ)

わたし そのいっぽうで、カントはヒュームをはげしく批判もしている。たしかに人間の知性には限界があるけれど、その限界をつきつめて示さないで、経験によるものだとしてしまうのは、「それはもうひとつの独断論にほかならない」と言っている。つまり、このカントさんが試みたのは、知性の限界をしっかりと見極めて、ほんとうに認識できること、可能性として留保できること、まったく認識できないことを、細かく提示することだった。……フク兄さん?

フク兄さん …………、あ、聞いておるぞ、聞いて…………ZZZZZ。(完全に寝てしまったな)

わたし 今日はカントの生涯について、簡単に述べて、さっきの『プロレゴーメナ』の概要を話しておくつもりだったのだけど、最初に飲ませてしまったのが戦略ミスだったなあ。ともかく、カントはヒュームなどに刺激をうけて、独断論から脱出すると同時に、ヒュームが展開したような経験だけへの依存を避けて、人間の知性をもっと細かく分類しようとしたわけなんだね。それは、次回から語ることにしよう。

フク兄さん ……………。(当然、聞いてないよね)

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