フク兄さんとの哲学対話(20)バークリーの超・観念論が哲学の未来を開く

このシリーズも長くなったが、こんなに長く続くとは思ってもみなかった。そもそも、フク兄さんが飽きずに話をすること自体、想定外だったのだ。今回はフク兄さんが時々訪れる知り合いの家を訪問した。なんだか宇宙の真ん中にあるような家だった。いつものように( )内はわたしの独白。

フク兄さん おお、よく来たのう。ここには、やってくるものが少ないので、いってみれば隠れ家のようなものじゃが、さて、今日は誰の話になるのかのう。

わたし いや~、ほんとに不思議なところだよね(なんか変なとこだな)。え~と、今日はジョージ・バークリーという哲学者について話してみたい。日本では、あんまり知られていないけど、前回までのロックの批判者で、哲学史では不可欠の人物とされているんだ。

フク兄さん まったく知らんなあ。もっとも、わしは哲学者なんか、ここでお前と話すことになる前は、あんまり興味がなかったからのう。さて、そのバークリーさんとは、どんな人じゃ?

わたし まず、何をいった人か、から話してみるね。前回まで3回テーマだったジョン・ロックは、この世界を神がつくった物のようなものとして考えていた。それで、人間は神から授かった能力によって、この世界を感覚によってとらえ、そして、観念を組み立てて神の意図を認識するということになっていたよね。

フク兄さん いきなり難しい話になったが、まあ、この世は感覚で知ることができるものでできていて、それを知覚してみながら、神から与えられた言葉などの能力を使って組み立てて、生きていくということかのう。(へえ、ちゃんと覚えているんだ)

わたし ところが、このバークリーという哲学者は、それは間違っているというんだね。結局、知覚して観念でとらえて、観念で組み立てるんなら、この世界というのは観念そのものじゃないか、というわけだ。「存在するとは知覚すること」というのが、バークリー哲学の核心だとされているんだけれど、この世界というのは知覚して観念でとらえたものだから、観念でできあがっている。人間は自分の頭の中を覗いてみれば、観念しかないことがわかるといっている。

フク兄さん ふ~ん、それはジョークとしていっておるのかのう。

わたし いや、本気も本気なんだ。観念でとらえて観念で考えているんだから、人間にとって世界は観念なんだ。それ以外の何物でもないというわけだよ。彼の主著である『人知原理論』が出たのは1710年だけど、当時の人たちも呆れた。だって、いたるところに観念じゃない現実があるじゃないかというわけだよ。友人の作家スウィフトですら、(『ガリバー旅行記』を書いた人だけど)使用人に「バークリーがやってきてもドアを開けてやる必要はないぞ。かれは観念だから、ドアは通り抜けられる」と言っていたほどなんだ。ま、スウィフトの話には、かなりジョークが入っていたと思うけどね。

フク兄さん それができたら面白いのう。スイッと、通り抜けたりしてのう。ほっほっほ。(さりげなく、洒落をいったつもりなんだろうな)

わたし とはいえ、これは哲学的には、必ずしもジョークではないんだ。たとえば、この世界は全部自分の頭のなかにあるものではないか、と考えることは可能だからね。これは唯心論といわれるけれど、小説なんかでは、そういうのが沢山あるよね。バークリーの哲学も唯心論のひとつと分類する人たちもいる。ただ、バークリーの場合、注意すべきなのは、これはロックの説を批判して、できれば叩きつぶすために、論じていたということなんだね。

フク兄さん ほほ~う。……いよいよ、面白くなってきたところで、ちょっと休もうかのう。弟よ、もちろん、お前は手ぶらでやってきたわけではなかろうのう。(ほら、ほら、でたよ、このセリフ)

わたし もちろん、……ほらね。(あ、目が光った)

フク兄さん おお、会津の酒『花春』ではないか。さあ、さあ、これに注いでくれ。(それって、ご飯茶碗じゃないかな)おっととと、……ぐび、ぐび、ぐび……ぷふぁ~。おお、会津300年の風が吹き抜けるようじゃ。いいのう~。お前もどうじゃ。ほっほっほ。ここに盃もあるぞよ。(ぼくは盃か)

わたし おっととと、……ぐび、ぐび。おお、やっぱり美味しいね。で、バークリーがなぜそんなに情熱を燃やしたのかというと、この人、アイルランドにある英国国教会のビショップ(主教)なんだ。しかも、きわめて謹厳実直な人物なんだよね。面白いのは、彼の徹底した観念論はロックを批判していながら、哲学史では次のヒュームやカントを刺激して、次の時代の哲学への道を開いたということなんだ。

フク兄さん ぐび、ぐび、ぐび………。あ、聞いているぞ、聞いているぞよ。で、なんでそういう奇妙なことになったんじゃ。

わたし バークリーの議論は、ロックを批判的になぞることで展開していた。つまり、ロックのように物の世界があって、それは神が創造したものであり、人間は感覚で経験して、観念で組み立てていくという議論は、やはり妥協的で不徹底だと思う人たちは多かった。バークリーは徹底してひとつの論理だけで全部を説明しようとしている。それだけではなく、彼は当時の流行だったニュートンの自然哲学にも激しい攻撃を行っていて、この新興の思想からもキリスト教の擁護を企てているんだね。

フク兄さん またしても神さまなんじゃな。しかし、観念だけでできているというのは、一貫しているようで、なんかもの足りないのう。「それはお前の思い込みだろ」、ということはよくあることじゃよ。

わたし そうなんだよね。バークリーは前の世代のデカルト哲学も批判しているんだけど、特に、デカルトが物の世界に最初の動因を与えたのが、神だといったのが気にくわなかった。そんなのは不遜もはなはだしく、最初どころか、ずっと神は動因でなければならない。だって、ビショップ様なんだからね。だから、バークリーの観念哲学では観念がすべてなんだけれど、それは人間が勝手に生み出すことはできない。それは神からやってくるんだ。

フク兄さん …………(ん? あれ)

わたし え~と、たしかに、人間には心とか精神と呼ばれるものがあって、意志をもって能動的に活動できる。観念によって思考することもできる。しかし、人間が知覚することで得られる観念は自分では作り出せない。たとえば、目を開けていれば、知覚は向こうから入ってきてしまうわけだからね。じゃあ、誰が知覚させて、観念でとらえさせているのかといったら、それは人間とは別の心あるいは精神が生み出していると考えるしかない。つまり、それがバークリーにとって神なんだな……あれ、フク兄さん、もう、寝てしまったの?

フク兄さん ………、あ、……聞いている、聞いているぞよ(寝てたな、これは)

わたし 今日は、あまり多く触れられないけれど、バークリーはビショップとしては極めて行動的な人で、植民地だったアメリカに大学(もちろん、神学部が中心の)をつくろうという計画をもっていた。その計画自体は失敗したらしいけれど、カリフォルニア大学バークリー校という大学名に、彼の努力が顕彰されている。

フク兄さん ほう、カリフォルニアなら気候がいいから、健康にはいいのう。(まだ、よく目が覚めてないみたいだな)わしも、お前の今日の話で、なんだか気持ちが軽くなったぞ。で、次回のテーマは誰なんじゃ。

わたし へえ、積極的なんだね。(あ、背伸びしている)ひと眠りしたので元気になったかな。さっきいったようにバークリーは以降の哲学の歴史に大きな刺激を与えた。というか、バークリーの観念論をそのまま認めたら、この世から物がなくなって、話が進まなくなってしまう。特に、ヒュームとカントだね。そこで、ヒュームに繋ぎたいのだけれど、これも手ごわい相手なんだよなあ。

フク兄さん 弟よ、恐れることはないぞ。わしも、しっかりと論じるつもりじゃ。お前もまさに、バークリーのように心からジョーク観念して、しっかりと取り組んでもらいたいぞよ。ほっほっほ。(え、なんだか、かなり誤解しているような)

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