デイヴィッド・ヒューム;経済学を旅する(4)
デイヴィッド・ヒューム
『政治論集』1752
経済における貨幣のはたらきを詳細に検討する
ヒュームの名前は、日本では『人性論』あるいは『人間本性論』の翻訳で知られている。この中にでてくる「因果律」についての議論は、初めて読むものを驚かせる。あなたが当然と思っているAとBとの間にある因果関係は、実は、最初からまったくあてにならないものだ、と断言しているからである。
これを読んで納得して、ああ、俺ってバカだったと思う必要はない。本文を読んでいただければ分かるように、とびきり頭のよい哲学者カントでも衝撃を受けて、根本的に考え直し『純粋理性批判』を書くことになったほどだ。しかも、いまも因果律についての哲学論では、賛成するにせよ反対するにせよ、ヒュームの因果論は最重要の地位をしめている。
しかし、歴史というのは皮肉なもので、これほどのインパクトがあったこの哲学上の著作は、ヒュームが後に「印刷機から死児として出てきた」と慨嘆したように、最初はまったく注目を集めなかった。最後まで大学に職を得られなかったヒュームが、著述業者として食っていけるようになったのは、『イングランド史』という歴史書だった。
そしてまた、彼の経済・政治論は英国では評価が高かったが、変なタイトルを付けられたせいもあって(この分野のエッセイを集めた文庫本は『市民の国について』という、ヒュームの意図とはまったく関係ないタイトルがついている)日本では読む人が少ない。とくに、ヒュームが経済論でも大いに活躍し、経済学史でも不動の地位を得ていることを、日本人の多くは知らないのである。
一時はアメリカ経済学界を席巻すると思われた「合理的期待」の中心人物だったロバート・ルーカスは、自分のアプローチの始祖としてヒュームをあげている。また、ケインズは最終的には均衡論に傾いたとしながらも、経済の不均衡に注目した理論家としてヒュームを評価した。そして、ハイエクも英国自由思想の始祖はロックではなくヒュームだと断じている。
これほど後世のそうそうたる経済学者たちから高い評価を得ている人物は、おそらくアダム・スミスを除けば誰もいない。それでは、このスミスとヒュームを比較したジョセフ・シュンペーターはどう論じていたか。それは、本文の最後のところを読んでいただきたい。
貨幣はどこまで経済に対して中立的なのか
タイトルでも分かるように、デイヴィッド・ヒュームが本書を書いていたとき、今で言う経済学を意識していたとは思われない。十二の論文のうち八つまでもが経済関連のテーマであり、しかも、最初の章が「商業について」(『市民の国について』岩波文庫に収録。以下同様)なのだから、ヒュームは政治という大枠のなかに、重要な項目として商業および経済政策を含めていたことがわかる。
これらの章のなかで、当時の人々に熟考をうながし、いまも経済学において議論の対象となりつづけているのが、「貨幣について」の章だろう。彼はこの章の冒頭で述べる。
「実を言うと、貨幣は商品流通において主題の一つとなり得るものではなく、財貨の交換においてそれを円滑にするためにひとびとが互いに同意し合っている交換用具にすぎません。……誰の目にも明らかなように、その国の所有する貨幣量の多少は全く何の意味も持ちません」
ヒュームは、貨幣は経済を覆うヴェールに過ぎないとする「貨幣数量説」を、ここではっきりと主張している。もちろん先駆者は他にもいるが、分かりやすく定式化し、後世に持続的な影響を与えたという意味で、彼は「貨幣数量説」の先駆者なのだ。
「もしその国に従来よりもより多量の貨幣が存在するようになれば、同じ量の財を表示するのにより多量の貨幣が必要となるというだけのことです。ですから、その国家だけに限定して問題を考えるならば、貨幣量の増大が善悪いずれであろうと、なんらかの結果をもたらすということは皆無です」
その国の豊かさとは、重商主義者たちが主張したように金銀の量ではなく、衣食住に用いられる財の豊富さであるのだから、たとえ貨幣の量が増減しても豊かさになんの影響もない。貨幣の量が二倍になれば、単に同じ豊かさが二倍の貨幣によって計量されるようになるだけのことなのである。
ここまでは非常に分かりやすい、きわめてシンプルな貨幣数量説ということができる。しかし、ヒュームは決してシンプルな人ではない。たとえば、新大陸からもたらされた金銀が、その分量に比例する分だけ物価を上昇させたかといえば、そうではない。
「われわれの気づくことは、いかなる国であれ、その国へ貨幣が従来よりはるかに大量に流入し始めると、事態は一変し、労働と生産活動とは活気をおび」、そのことで産業の各分野は潤うという事実である。貨幣数量説だけでは「今述べた〔社会過程〕の説明は容易ではない」ことになる。
ヒュームがここで持ち出すのは「時間」にほかならない。時間の隔たりが、この社会過程を説明するというのだ。
「物価の高騰が金銀の増大のもたらす必然の結果であるとはいえ、そのような高騰は金銀の量が増大したとたんに始まるというのではなく、増えた貨幣が国内隈なく流通してゆきその影響があらゆる階級のひとびとに感得されるようになるには若干の時間がかかるということです」
貨幣以外の財が一定の社会であっても、増えた貨幣が国内隈なく流通するまでは、貨幣の増加は豊かさの増加であるとされて、人々をさらなる生産に駆り立てるというわけである。
ヒュームの貨幣論は、どこに力点を置くかによって評価が違ってくる。事実、ヒュームの説は時間が経過した後には貨幣数量説が成立することを論じていると捉える立場もあれば、ケインズのように社会過程の説明にこそ意義があると主張する人もいる。もちろん長短期の場合分けも可能だろう。
この世の因果関係は人間の習慣が支えている
ヒュームは一七一一年、スコットランドの名門ヒューム伯爵家の支族の家柄に生まれた。しかし、父親が二歳のときに亡くなったので、彼には十分な資産を残してくれなかった。十二歳のときに兄とともにエジンバラ大学に入り、法律を勉強するはずだったが、文学や哲学に夢中になってしまう。
十八歳ころには独自の哲学の構想を試み、二十三歳のときフランスに渡って、ラフレーの町で最初の著作『人性論』を執筆。イギリスに帰国して翌年出版してみると、まったく評価されなかった。後にカントが「ヒュームの警告がまさしく、数年前にはじめて私の独断的まどろみを破り、思弁的哲学の分野における私の探求にまったく別の方向を与えたものであった」(『プロレゴーメナ』世界の名著32中央公論新社)と評価した著作も、最初は散々な目にあったのである。
この『人性論』は、徹底して因果律を検討したものとして知られる。簡単にいってしまえば観念間の因果関係が正しいとしても、事実間の因果関係や事実と観念との間の因果関係が正しいとは限らないということだ。それでも現実の社会生活がほぼ順調に営まれているのは、「これならだいたい正しい」という判断の積み重ねである「習慣」が働いているからなのである。
ヒュームはこうした見方を基礎にして正義についても述べている。正義は人間に自然に備わっているのではない。人間に「共感」の能力があるため、目の前に起る幸・不幸が我々の心を動かして正義を生み出ださせるきっかけとなる。「正義や不正義は自然に起因するのではなく、人為的に、教育と人間のしきたりから必然的に生じるということを認めなければならない」。
この処女作から六年後の一七四一年『道徳・政治論集』を出版。この著作は評価が高く、しかも売れ行きがよかった。名声が高まるにつれて大学に迎える話もあったが、そのたびごとに『人性論』にあった「無神論的傾向」がネックになり、いつの間にか招聘の件は断ち切れになった。
しかし、本書『政治論集』を刊行した一七五二年には、すでに思想家ヒュームの名声はヨーロッパ中に及んでいた。そしてイギリスの産業革命は、もうすぐ始まろうとしていたのである。シュムペーターは『経済分析の歴史』(岩波書店)のなかで、本書について次のように述べている。
「『国富論』においてアダム・スミスはヒュームを抜きでることなく、むしろ彼れ以下に留まった。実際のところ、ヒュームの理論は、自動的調節の媒介物としての物価変動に対する彼の過度の強調をも含めて、実質上は今世紀の二十年代に至るまで、少しも挑戦されるところがなかったといっても、真理から隔たることはない」