フク兄さんとの哲学対話(34)カント④『実践理性批判』の核心に迫ってみた

イマヌエル・カントの『実践理性批判』について語ることになっていたのに、もう2カ月もたってしまった。言い訳をすれば、この間にたくさんの世界的事件があり、また、個人的にも雑用がいくつか重なった。でも、いちばん大きい理由は、この『実践理性批判』は肝心な部分が分かりにくいからだ。スキをつくってフク兄さんに突っ込まれたくなかったが、もう、居直って話すことにした。例によって( )はわたしの独白である。

わたし ちょっと間があきすぎたけれど、カントの続きをやりたいんだ。いわゆるカントの「3批判」のなかの2番目、『実践理性批判』は、道徳について述べているわけなんだけれど、ちょっと分からないところがある。分からないところは、分からないというからね。そのつもりで付き合ってほしいんだけど。

フク兄さん おお、めずらしく正直なことをいうのう。しかし、「正直者の頭に神宿る」というから、その神さまに助けてもらうのも悪くないじゃろ、ほっほっほ。(こちらの気もしらないで、勝手なことをいってるなあ)

わたし この『実践理性批判』というのは、主著とされる『純粋理性批判』の続編とされる本なんだけれど、もうひとつの『判断力批判』と比べても、かなり薄いんだね。でも、読んでいくと次々と疑問が生まれて、かなり苦しい読書となる。でも、そのことは率直に述べることにして、まず話を始めてみるね。

フク兄さん ほっほっほ、わしはかまわん、かまわんぞ。

わたし まず、この本についても『純粋理性批判』と同じように、デヴィッド・ヒュームとの比較から始めると、すこしは分かりやすいかもしれないんだ。事実、カントはところどころそうしている。ヒュームは『人性論』のなかで、人間の知性には因果関係(カントは原因性という言葉を使っている)を知る能力がないけれど、想像力で因果関係を推定していると述べていることは、すでに前回も話にでたよね。

フク兄さん おお、そうじゃった、そうじゃった。

わたし さらに道徳というのは人間の作り物で、しかも、人間の感情の好悪に起源をもっていて、それが長い間に社会に受け入れられていくことで、人間の社会道徳となっていくと述べたことも以前に述べた。でも、カントは『純粋理性批判』でヒュームのこうした大胆な説に衝撃は受けたけれど、因果関係については、人間には経験以前にそれを認識する「原因性」のカテゴリーが与えられているので、ちゃんと知性で因果関係を論じることができると反論したわけなんだ。

フク兄さん 結局のところ神さまか何者かが、人間にそういうものを与えてくれているということじゃろ。そう考えないと説明がつかんものなあ。(あ、覚えているんだ)

わたし ま、そういうことなんだね。それで、実は、『実践理性批判』でテーマにした道徳も、肝心のところは「アプリオリ」に、つまり経験以前に与えられたもので、判断できるということになるんだ。

フク兄さん 分からんでもないが、そう神さん、神さんで説明してしまうと、何だか最初からキリスト教会の坊さんと同じにならないのかのう。

わたし もちろん、カントはそこのところを神という言葉なしで語ろうとしているけど、そのさいもヒュームに戻っているんだ。ヒュームは道徳は作り物で、それは感情の好悪が元になっているというけど、もしそうなら、この世の中の倫理や道徳は、単なる好悪で決まってしまって、道徳はそのときの感情の偶然の産物になってしまう。それはまずいんじゃないかというわけなんだね。

フク兄さん う~ん、わしはたいがいのことは好き嫌いで判断してきたから、好悪で決まるといわれても驚かないが、逆に「じゃあ、お前は道徳に沿っていたのか」といわれると、「そうです」とはちょっといえないところがあるように感じるのう、ほっほっほ。

わたし カントが言っているのも、まさに、そこのところなんだ。感情の好悪で決めて、いつも好きなことをすれば、幸福な気分にはなれるかもしれないが、それは道徳的に生きたとはいえないというわけなんだ。だから、それでいいと述べたエピクロスのことは、いわゆる快楽主義ではないと分かっていながら、かなり批判的なんだね。いま、フク兄さんが言ったような、幸福ではあるかもしれないが、道徳とは違うかもしれないという感覚を根拠のひとつにして、これもまた既存の見方をひっくり返してしまうんだ。

フク兄さん カントさんは、人間は現実の世界そのものを経験しているとされていたものを、「それは違う」と言ったわけじゃったな。人間にどういう能力があるかを検討しないと、現実の世界をどこまで認識できるかも分からないじゃないかといったという話じゃったな。(あれ、フク兄さん、すぐに寝てしまうくせに、よく覚えているなあ)

わたし そう、そう。それで、道徳についても人間の知性を論じたときと似たようなやりかたで、果たして人間に道徳とは何か判断できるのかと、問題提起しているわけなんだよね。ただし、『純粋理性批判』で扱った世界は、人間に与えられている知性の世界だったけれど、こんどの『実践理性批判」では人間が自ら行動する現実の世界での判断なんだね。人間の知性が認識できるのは、神さまが与えてくれたカテゴリーという能力があるからだけれど、それは生きて行くさいの実践的な判断には、実は、使えないんじゃないかという疑問が生じてくる。これは大きな問題なんだよね。それで……

フク兄さん ちょっと待った、ここらで一休みしようぞ。興奮してしゃべると、ろくなことがないからのう。ほっほっほ。さっき、紙袋をもっていたのう。あれはなんじゃ。(あいかわらず、そういうことには気がつくんだからなあ)

わたし 今回は、ちょっと変わったお酒なんだ。ほら、これだよ。

フク兄さん おお、なんと『忠正(ちゅうまさ)』ではないか。よくこの酒を見つけたのう。(何言ってんだ、いつぞや焼津の温泉ホテルでしこたま飲んだじゃないか)

わたし ま、ともかく、ささ。(でたあ、また大きな丼だあ)これはカミサンが旅行のさいに買っておいた一本で、フク兄さんによろしくといっていたよ。

フク兄さん おお、お前にはもったいない女房じゃのう。おとととととっと、ゆっくり注ぐんだぞよ、こういうときは。………おおお、いい香りじゃなあ。ぐび、ぐび、ぐび、ぐび、ぐび、ぐび、ぐび、………ぷふぁ~。これはいい! 麹の香りが強いが、けっして邪魔にならない。まっすぐに味わいが伝わってくる。ささ、おまえも飲んでよいぞ。(あ、この酒は、ぼくが持ってきたんだぞ。しかも、小さな盃じゃないか)

わたし おととと、ぐび、ぐび、ぐび、……おお、うまい! たしかに、クラシックだが爽やかな風が吹くようだ。……さて、カントについて続けるけど、彼が道徳について語るさいに言い出すのが、人間の自由ということなんだね。

フク兄さん ええ? 人間なんぞを自由にしたら、悪いことだけはびこるじゃろ。

わたし 多くの人はそう思うのだけれど、カントはそうではないというんだね。まず、カントは『純粋理性批判』で述べたように、知性が正しいというのは、そこに法則性があるからだというんだ。つまり、常に同じように働くということだね。では、道徳にそうした意味での法則があるか。カントはあるという。

フク兄さん しかし、そこに法則なんてものがあるのかのう。

わたし カントは次のような例え話をしている。ある暴君がいて、「お前の友人が罪を犯していると嘘の証言をしろ、しないとお前を殺す」といったとする。言われた人は自分が生き残るために友人を裏切るのは、道徳にかなっていないと分かるが、そのときに自分の命も顧みずに証言をしないという自由があるだろうとカントはいう。自由というのは知性における「原因性」に関わっているが、必ずしも現実の行動にはつながらないかもしれない。しかし、それでも原因性というカテゴリーを用いることで、道徳において正しいことは何かについて論じられるのだと、カントはいうわけなんだよね。ここでカントは、人間の自由が関わっているこの問題を、いわば特別扱いにして、知性の世界の判断でも「形式」としてなら実践に適応できると言っているように受け取れるんだ。

フク兄さん どうも分からんなあ。それが道徳で法則性があるといっても、結局、その人は命を失いたくないから、嘘の証言をすることのほうが多いのじゃないかのう。ヒック!

わたし カントが言いたいことを忖度すると、それでも人間には死を選んで自由を行使して道徳を実現させることができる。それこそが人間の自由なのだということになるんだね。そして、こうした判断を行なうさいに従うべき行動原理は、「格率」として提示されてきたというんだ。格率とは普通は「格言」とか「金言」と解されるけど、たとえば、「汝の隣人を愛せよ」という聖書にでてくる言葉は格率だね。また、論語にでてくる「おのれの欲せざるところを人に施すなかれ」も格率。カントが『実践理性批判』の前に書いた『人倫の形而上学の基礎づけ』という本に出てくる有名な一節によれば「お前の行為の格率を、お前の意志によって、普遍的自然法則にするかのように行動しなさい」ということになる。

フク兄さん 何だかカントさんという人は、かなり不自然なことを言っているような気がするのう。もうちょっと自然にならないのかのう。わしにはそんなことはとても無理じゃ。

わたし これも忖度すると、これまでの歴史のなかで、たとえば聖書の言葉のような格率が人間社会に生まれてきたけれど、実行をともなって道徳の法則になりえたものだけが残ってきた。逆に、そうした格率を心に刻んで行動に移ることによって、道徳の法則といえるものに達することができる、ということじゃないかな。ただし、カントは道徳というものが文化や教育によって生まれてきたという、ヒュームなどが考えた解釈にはまったく批判的なんだね。カントの説でいけば、道徳の法則がまず神か何者かによって与えられていて、それにふさわしい格率が生まれてきたので、人間はこの格率を頼りに自由を行使することによって、道徳の法則に達することができる、ということになるようなんだね。

フク兄さん ……ヒック、カントさんのいうことは、逆立ちしているのう。なんだか急に酒が回ってきたぞよ。もうちょっと飲むか。ぐび、ぐび、ぐび、ぐび……、ぷふぁ~!

わたし フク兄さん、酒が回っているのに、そんなに急に飲んだら急性アルコール中毒になるよ。それこそ道徳の法則に反するだけでなく、幸福にもなれなくなる。……あれ? フク兄さん、フク兄さん、大丈夫? 急性アルコール中毒ではないな。

フク兄さん …………。ZZZ、ZZZ、ZZZ。

わたし あれ、寝ちゃったかな。……でも、無理ないか。ついでだから話してしまうね。今日の『実践理性批判』という本は、比較的薄いこともあって、哲学に興味をもつ若い人が手にとることも多いのだけれど、かなり問題含みの著作といってよいのじゃないかな。『純粋理性批判』を読みこなしたと豪語する人でも、『実践理性批判』について聞くと、言葉を濁したりする。でも、後世への影響は大きくて、道徳の起源を考えるさいには、必ずといってよいほど取り上げられてきたんだ。

フク兄さん う~ん、もう少し飲みたいのう。(もう飲まなくてもいいよ)

わたし ことに最後の結論にある「常に感嘆と崇敬をもって心を満たすものが2つある。わが上にある星に満ちた空と、わが内にある道徳法則である」という言葉は有名で、宇宙に自然法則が与えられたと同じように、人間には道徳というものが与えられたことを意味しているといってよい。20世紀になっても、道徳に基づく行動に似たものが類人猿にも発見されたときには、カントの道徳論が引き合いにだされたし、また、カント哲学をニュートン物理学の哲学的表現としたカール・ポッパーは、道徳の生物学的起源を論じたこともあったんだ。……あ、フク兄さん、やめたほうがいいよ。

フク兄さん こういうとき、あえて飲む自由こそが道徳法則かもしれんぞ。(何いってんだ、やめたほうがいいけどなあ)ぐび、ぐび、ぐび、おお、うまい! 生物学的にとても幸福じゃ。カントさんに乾杯!

わたし え~と、さらにロールズの『正義論』なども「格率」を提示し、その「法則性」を追求している点でも、カントの影響が歴然としているといわれるんだ。もちろん、歴史や文化による道徳の形成を考えるのが分かりやすいけれど、生物学的起源や法則性の探究も完全には捨てられない。というのも、本当に道徳が歴史と文化だけで生まれたのかどうか、いまもはっきりとは分からないからね。あれ、フク兄さん、フク兄さん、……倒れちゃった。だからいったじゃないか。救急車、救急車! フク兄さんがひっくりかえっちゃった。

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