「ちきゅう」はどこまでも繋がっている;『せかいのおきく』にある強い向日性

『せかいのおきく』(2023・阪本順治監督)

 映画評論家・内海陽子

 天秤棒を上手に操って桶を運ぶ男の姿は威勢がよくてなかなかいいものだ。その桶に入っているのが魚なら、一心太助のようないなせな若い衆をイメージするところだが、この映画の若い衆が担ぐ桶に入っているのは汚わい(糞尿)である。それでも、武家娘おきく(黒木華)はこの若い衆に恋をする。その気持ちを受け止めると、悪臭ふんぷんたる汚わいのイメージが変化する。よく見ると、この映画の汚わいはなんだか愛嬌がある。

 雨が降り続いて長屋の厠が汚わいで溢れれば、それをくみ取りに来る矢亮(池松壮亮)と忠次(寛一郎)はヒーローである。口には出さずとも、誰もがそれをわかっている。一本気な父(佐藤浩市)の行動によって、長屋暮らしに追いやられたおきくは、父ゆずりの高潔な精神を保っているのだろう。物語でははっきり描かれないが、忠次の瞳にどこかまっとうな光があるのを見て、彼女はこの男に決めたのだろう。ここには父を追い回す“下賤な”武士たちとはまったく違う生き方をしている男がいるのだ。

 とはいっても、矢亮も忠次も貧しい百姓の出であるから、好んでこの仕事に就いたわけではない。三人はにわか雨の日に、戸外の厠の軒先で雨宿りをして言葉を交わす。ときは安政六年、西暦1859年のことである。どうやらおきくは長屋ではなく、外の厠を使うのが習慣のようであり、二人の男の紳士的な態度に好感を覚えたようだ。物語は、二人の男が汚わいの汲み取りをして代金を払い、船に乗せて近郊農家へ運搬して金銭を受け取るまでを、つぶさに描く。武家屋敷の小者や傲慢な農家の主人に侮蔑されることは日常茶飯事で、矢亮は逆らわずに平謝りする。そして忠次に軽口を叩いて「ここ、笑うとこだぜ」とおどける。

 矢亮が武家屋敷の門前で小者に汚わいをかけられる場面がある。そこを通りかかったおきくが立ち止まり、手ぬぐいを差し出すと、矢亮は彼女の厚意を拒否する。この場面は軽口にはならない。おきくとはまるで身分違いであるとわかっており、彼女が忠次の思いびとであるということを知っているからだ。もしかしたら、矢亮もおきくに好意を抱いていたかもしれない。つまり彼は身を引いたのである。すべてわたしの思い込みかもしれないが、こういう矢亮がわたしは好きだ。

 序章から終章「せかいのおきく」まで、ぶっきらぼうな章立てになっている。言葉を失ってしまうおきくに寄り添うかのように全体に言葉足らずで、事件はおおむね事後の描写のみである。武士の一党に襲われた父はすでに瀕死の状態であり、おきくののどはすでに切り裂かれている。それが、突然ふりかかる災厄の衝撃を確かなものにする。血が流れ出るのどを抑えるおきくに、倒れている父が自分の首巻きを手渡そうとして力尽きる。言葉に頼らないからこそ鮮烈なリリシズムがあふれ出る。

 父の死から立ち直ったおきくは、しばし休んでいた寺子屋の手習いの仕事に精出す。事前に習字のお題をきれいなひらがなで書くのだが、忠義という字をひらがなに直す際に“ちゅうじ”と書き、ひとりで寝転がって照れる。まるで女子高生のようだ。長屋の貧しい障子戸に耳を当て、去って行く忠次の足音を満足げに聴く場面もある。さらには、丁寧につくった握り飯を抱きしめて外へ飛び出し、慌てて戻って来て障子戸を閉める場面では、戸はきちんと閉められずにすき間ができる。そのすき間からいじらしい恋心が見える。

 ときは安政から万延元年に移る。二人の男とひとりの女は、これからどうやって生きていくのだろう。矢亮が冗談のように「いつか二人で盗っ人でもするか」と忠次に言うが、もし二人が本当に盗っ人になったら、武家屋敷の内情にも詳しいからいい稼ぎになるだろうし、おきくを加えて三人で『明日に向って撃て!』(1969・ジョージ・ロイ・ヒル監督)のように楽しく遊ぶ日も来るかもしれない。主題歌は「雨にぬれても」だ。しかしそうはならないだろう。なぜなら、忠次は寺子屋の一番後ろでおきくに字を習うからであり、矢亮は一度かんしゃくを起こしたが、汚わい運搬の仕事を着実に続けて行くはずだからだ。

 悲惨な境遇にある若者たちを描きながら、この映画は非常に向日性が強く、ときどき可笑しい。寺の住職(眞木蔵人)の言う「せかい」の概念は丸いもので、ずっと行けばいつかこの場所に戻ってくるというものだ。どこまでもずんずん進め。せかいはどこまでも開けていて、せかいはいまあるここに繋がっている。地に足の着いた積極思考。それがこの愛すべき物語の魂を支えている。

●2023年4月28日より公開

内海陽子プロフィール

1950年、東京都台東区生まれ。都立白鷗高校卒業後、三菱石油、百貨店松屋で事務職に従事。休みの日はほぼすべて映画鑑賞に費やす年月を経て、映画雑誌「キネマ旬報」に声をかけられ、1977年、「ニッポン個性派時代」というインタビューページのライターのひとりとしてスタート。この連載は同誌の読者賞を受賞し、「シネマ個性派ランド」(共著)として刊行された。1978年ころから、映画評論家として仕事を始めて現在に至る。(著者の近著はこちら

 

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