ウクライナ戦争と経済(32)「新しい経済政策」という幻想

これまでの経済政策の常識というものが、コロナ禍を経過してウクライナ戦争が開始されたことによって大きく揺らいでしまった。それなのに世界の政府が表明している財政政策も金融政策も、その基本的枠組みにおいてほとんど変わっていない。それは何故なのだろうか。そして、通用しなくなった経済政策は、生じている「新しい」困難を乗り切ることができるのだろうか。

例によってメディアに現れた議論から話を始めたい。英経済誌ジ・エコノミスト10月22日号は「レジーム・チェンジ」と名づけた大特集を掲載している。社説として掲げた論文は「新しいマクロ経済の時代が生まれている。それはいかなるものか」というタイトルを付けている。では、何か新しい経済学が確立しつつあるとか、新しい経済政策が生み出されているという話なのかというと、どうもそうではないのだ。

「この特集では、世界に難産の末に生まれつつある新しいレジームを描き出している。それは、戦後のケインズ主義の台頭や、1990年代の自由市場とグローバリゼーションの展開などと同様といってよいだろう。この新しい時代には、2010年代の低成長の罠から抜け出し、高齢化や環境問題といった大きな問題と格闘することになる。しかし、中央銀行制度の破綻と公共支出の制御不能という、金融財政の混沌から生まれる危険も待ち構えている」

では、それほどの大きな変化をもたらしたものとして、同誌があげている最近の現象とは何だろうか。まず、何世代にもわたって見られなかった市場における混乱であるという。まず、約40年ぶりに生じた2桁の世界的インフレーションであり、アメリカのFRBは1980年代以来の速さで金利を上げている。また、世界の株式市場はドル換算で25%も縮小し、国債は1949年ぶりの下落。グローバリゼーションの後退によって約40兆ドルが消え、ウクライナ戦争によってエネルギー市場はずたずたになってしまった。

こうした事態に対して、ジ・エコノミストが予想している「レジーム・チェンジ」はどのようなものだろうか。まず、インフレについてはこれまでの2%というインフレ目標は役に立たないことが明らかになったので4%に修正されるだろう。また、金融システムについては2008年のころと比べて「緩衝システム」が発達したので、銀行システムが破綻するようなことはないだろうという。

同誌によれば、これからの「素晴らしい新世界」においては、かなり高いレベルの政府支出と同じくかなり高いインフレ率が、むしろアドバンデージを持つことになるという。これは短期的にはリセッションを生み出すことになるかもしれないが、長期的には中央銀行は景気後退のさいに金利を下げることができるようになり、何か支障が生じた場合にも債権買上げや救済措置の必要を低減させることができる、のだそうである。

もちろん、危惧すべきことも述べている。新しいレジームにおいては「大きな危機」も伴ってやってくる。たとえば、中央銀行の信頼喪失という事態が予想される。これまでのように2%を断固として目標としていたが、今回のように10%近くになるまで手をこまねいていたという印象は強い。また、財政支出の巨大な「大きな政府」の時代には、ポピュリスト政権による放漫財政が予想されるという。

こうした、まったく新しくない指摘とまったく素晴らしくない対策ばかりの社説の締めくくりは、驚くべきことに、次のような格調の高いものである。「経済学において最も大きな間違いは、現在のレジームがこれからもずっと続いていくという仮説を反映しているイマージネーションの錯誤に他ならない。それはありえないのだ。変化はやってくる。備えねばならない」。

イマジネーションの錯誤に陥っているのは、他でもないこの雑誌とはいわないが、少なくともこの特集ではないだろうか。ひとことでいえば、いま生じている経済的な危機に見合うだけの、新しく素晴らしい「新しいレジーム」を主張していながら、これまでのレジームが、実はずっと続くという仮説で、これからのつぎはぎだらけの地味な対策を述べ立てているのだ(もちろん、これくらいしかないことは確かである)。

その典型として指摘できるのは、1990年から始まったとする、インフレ率が低く、また金利もそこそこのレジームをひとつの時代としてイメージし、そこから外れているように見えるいまの状況が、根本的にそれとは異なる時代のイントロダクションのように論じていることだ。この時代に世界に蔓延した、世界をひとつにする市場という思想とグローバリゼーションは、アメリカの一極支配がまがりなりにも可能に見えた時代の単なる幻影にすぎない。

しかし、国内に目を転じて、ジ・エコノミストが描き出しているこれまでのレジームというのは、次のようなものだ。それぞれの国が中央銀行と財務省をもち、その独立の度合いはともかくとして、中央銀行は財務省とは別に金融を担当し、財務省は財政を担当して、経済が危機におちいった場合は財務省が両方を主導する。市場はもちろん金融、モノ、サービスに分かれていて、商品や流通によっても多くの種類の市場が存在する。

いっぽう、世界全体をひとつであるかのように見せているのは金融市場であるが、それですら貨幣、債券、証券、その他の金融商品などによって分かれている。あたかも市場がひとつであるかのようにイメージするのは、アメリカが1997年ころから唱えだした「グローバリゼーション」という、世界経済を支配するイデオロギー的影響が大きかった。そのイデオロギーがいまや成立しにくくなったのは、巨大な中国という経済単位が存在感を高めたからである。付け加えておくと、グローバリズムですら新しいものではない。第一次と第二次の大戦間には、金本位制に拠っていたものの、ポンドもしくはドルを介したグローバルな経済がかなりの部分成立していた。

ジ・エコノミストの特集に戻るが、これから起こると予想している事態のほとんどすべては、1990年代にいちおうの成立をしたとされている、世界経済と国内経済のレジームを前提としている。第二次世界大戦後、国内的にはケインズ主義によって富の拡大をはかり、世界的には1970年代からの変動為替相場制によって、自由貿易を拡大していくという世界市場に、かなり強引に接続されていった(イラストはThe Economistより)。

この時期にはマクロ経済はケインス主義が継続していたのだが(マクロ経済学というのはケインズの発明である。それはミルトン・フリードマンも認めていたし、彼自身もマクロ経済学者だった)、新古典派やマネタリズムが台頭してきて、それは特に国際経済に応用されてゆき、さらには国内もまた新古典派の経済学が勢力を拡大した。しかし、国内経済のケインズに始まるマクロ経済政策は維持されて、2008年に金融危機が起こると、ニューケインズ派によるケインス経済学が影響力を拡大するかたちとなった。

こうしたマクロ経済と経済学との関係をみていけば、ジ・エコノミストがこれからの経済を「新しい時代」とか「レジーム・チェンジ」というのはかなり見当違いのように思われる。10%近くのインフレが起こっているのは、もちろんウクライナ戦争の影響も大きいが、アメリカの場合はそのかなりの部分が、急激で大規模なケインズ主義的財政支出のせいである。「レジーム」とは体制そのものであり、フランス革命で転覆させられた王政は「アンシャン・レジーム(旧体制)」と呼ばれた。レジーム・チェンジとはそれくらい大きな変化に使われる言葉だ(写真はabc.comより)。

繰り返すがアメリカ中心の自由貿易が停滞しているように見えるのは、中国の存在が大きくなったためであり、それは米中経済戦争に至っていた。今回のグローバリズムが後退しているのは、もともとアメリカの意図的な自国優先政策だったからなのだ。そして、いま先進諸国がしぶしぶ是認し、また、採用しようとしている金融・財政政策も、これまでのマクロ経済政策の応用あるいはキーを変えただけの変奏曲にすぎない。つまりは、何か新しい思想やテクニックが、加わろうとしているわけではないのである。レジームという言葉の大安売りはかえって現実を見えなくしてしまう。

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