MMTの懐疑的入門(番外編2)なぜ宗教性を帯びるのか

ときどき「MMT信者」などという揶揄を含んだ言い方を耳にするが、たしかにブームとしてのMMT(現代貨幣理論)に加担している人のなかには、単なる新しい経済理論への興味を超えて、信仰に近いような姿勢を示す場合がある。今回は「番外編2」として、なぜMMTが強いコミットメントを促し、宗教色をおびてしまうのかを考えてみたい。

経済学(economics)を名乗っている議論が、多くの人に信仰心に近いものを生じさせるのは、実は珍しいことではない。最も多くの人間を引きつけて、世界を二分する新しいタイプの国家すら産み出した経済学にマルクス経済学がある。カール・マルクスが執筆した『資本論』は「経済学批判」とサブタイトルにあるように、経済学を超えようとする試みであると同時に、それ自体が人間解放を主張する経済学であったといってよい。

実践をうながすマルクス経済学は「マルクス主義」とも呼ばれるように、そもそも初めからかなりバイアスのかかった思想として登場したのだから、現代の科学としての経済学とはまったく違うという人がいるかもしれない。しかし、「科学」を目指したポール・サミュエルソンの「新古典派総合」と称する経済学や、同じく「科学」を名乗ったミルトン・フリードマンの「マネタリズム」も、宗教的な性格を帯びていたことは否定できないのである。

昨年亡くなった、アメリカの経済学者ロバート・ネルソンは、日本ではあまり知られていないが、『宗教としての経済学 サミュエルソンからフリードマンへ、そしてその先』という本を書いているように、現代経済学の宗教的側面を研究した研究者だった。「経済学者は自分自身のことを科学者だと思っているのだが、この本で私は彼らがむしろ神学者に近いことを述べるつもりである」。

ネルソンは大学を出てから経済行政に携わったが、経済政策を住民に説明しようとしている自分が、経済学によって説明しているはずなのに、幸福の到来を告げる宗教者であるような気になってしまったという。つまり、「この新しい経済学に基づいた政策を実行すると、みなさんは貧困から抜け出せるだけでなく、明るい人生も送れるようになる」と説得している自分に気がついたというのである。

こういう話をすると「その通りで、いまの官僚たちはまるで宗教のように新自由主義の経済学を信じているので正しい政策が阻害されている」と言いたがる改革派官僚がいるかもしれない。しかし、ネルソンが問題にしているのは、彼の本のサブタイトルが示しているように現代経済学一般であって、ネオリベ経済学だけが宗教なのではない。新しい経済学の登場が常に新奇な思想性を帯びることは、他でもない、MMTの源流のひとつポスト・ケインジアンの始祖ジョーン・ロビンソンが「経済学説というものは、常にプロパガンダとして提示される」と認めているほどなのだ。

ここで前世紀を大波乱に導いたマルクス経済学について振り返っておこう。資本主義が崩壊に向かう必然性を説く膨大な文献を通じて、そこにあるのは、実は、キリスト教における終末とその先にある至福というイメージであるとの議論は繰り返されてきた。有名なのは哲学史家カール・レーヴィットが『世界史と救済史』のなかで示した、マルクスの歴史哲学に見られる「歴史とは人々を救済する物語」だという指摘だろう。

こうした指摘はレーヴィットにとどまらない。たとえば、マルクス主義に傾斜した政治学者ハロルド・ラスキなども『信仰・理性・文明』のなかで、20世紀のマルクス革命運動とキリストによる救済活動は重なっていると指摘したことがある。しかも、キリストの「再臨」が迫っていることになっていたのになかなか到来しないのと同じく、マルクスのいう「革命」も遠ざかっているのではないかと示唆していた。

マルクス経済学および主義については、さらに多くの思想的分析が試みられたが、ここで注目すべきなのはエルンスト・トーピッチュによって書かれた「マルクス主義とグノーシス」だろう。グノーシス主義というのは西暦1世紀に生まれ3世紀から4世紀にかけて影響力を持ったキリスト教の「異端」の教義だが、トーピッチュによればマルクス主義の発想法がきわめて似ているというのである。

グノーシスというのは古代ギリシャ語で「知識」とか「認識」を意味するが、グノーシス主義は世界を「善」と「悪」の二元論によって解釈する。バリエーションもあるが、おおむね、いまの世界は「悪」によって作られたものであり、「善」は隠されてしまっているので、正しい認識と知識によって「善」の世界を取り戻すべきだというのである。

こうした思考法がヘーゲルを通じてマルクスに復活しているとトーピッチュは指摘する。つまり、本来は自分の力で豊かな生活を実現できる人民が、悪である資本主義によって生産物を剥奪されているので、正しい認識によって解釈するだけでなく、世界を元に戻す革命によって、善なる世界を生み出すべきだというわけである。

こうしたマルクス経済学において展開された「終末と再臨」のキリスト教的な物語や、「悪によって作られた世界を善の認識によって本来の世界に戻す」という異端のグノーシス主義は、いまも繰り返されている。興味深いのは、ケインズ経済学によってもたらされた戦後のアメリカ経済が、インフレと不況の同時発生である「スタグフレーション」によって行き詰ったとき、フリードマン派や合理的期待派が、ケインズを激しく批判することでたちまち主流の中心にのしあがったことである。

70年代からのフリードマン人気はかなりなもので、それは2008年のリーマンショックを過ぎても続いていた。私の友人でアメリカに留学した男が、「なんであんなにフリードマンが尊敬されているのか分からない」と言っていたものだ。いまからすれば、金融の支配が拡大し巨大企業の自由勝手な経営を称賛する新自由主義の代表者なのだから、むしろ軽蔑されてよさそうなものだが、ほとんど英雄か神さま扱いだったのである。

合理的期待の経済学というのも、荒っぽくいえば数学によって証明されたことになっていただけの説で、経済についてのあらゆる情報が得られる状態にあれば、すべての経済政策は無効となってしまうというのが、この種の経済学の主張だった。そんなことになったら雇用政策も社会保障政策も意味がなくなるというのに、一時は若い経済学者たちの讃仰の対象となり、ほとんどアメリカ経済学を席巻する勢いだった。

80年に日本の経済学者である宇沢弘文氏がアメリカの大学を訪れたとき、合理的期待の代表的経済学者ロバート・ルーカスが絶頂にあった。「いまでも記憶に残っているのは、一人の女性の研究者が、ルーカスの後者の論文(「景気循環をどう理解するか」)を全部暗記していて、議論をするごとに、その論文の何ページに、こういう文章があるといって、眼をつぶって、あたかもコーランを暗誦するかのような調子で唱え出す光景は異様であった」(宇沢『経済学の考えかた』)

80年代は共和党のレーガン政権が経済政策をつかさどっていた時期で、レーガン大統領が贔屓にしたのが「サプライサイド・エコノミックス」だった。なかでも、南カリフォルニア大学のアーサー・ラッファーが唱えた「法人税を安くすればするほど税収が増える」という説がお気に入りで、この怪しげな説に対しては同じ共和党のブッシュ(父親)ですら呆れて「ブードゥー経済学(呪術経済学)」と揶揄したものだ。

しかし、ラッファー説は当時のアメリカで大人気で、経済評論家が入門書を何冊も刊行している。日本でもサプライサイド経済学は大受けで、何冊も翻訳が行なわれ、有名な経済学者が入門書を書いている。ちなみに、「ブードゥー」というのは、カリブ海の土俗的混交宗教のことで、ダンスを続けてトランス状態になる(神さまが乗り移る)のを祈りの極致とする教義をもっている。

この「ブードゥー経済学」は、ラリー・サマーズがMMTに投げつけた言葉でもあるが、それでは今の経済状況を有効に説明できない経済学は何なのだろうか。自然科学のような意味での「科学」なのだろうか。ここまで読んでいただいた方には、社会的現象としてみたときには、いま「主流」と呼ばれている経済学ですら、かなり宗教的色彩、場合によれば土着的混交宗教のような要素がいくらでもあることを、ご理解いただけるのではないだろうか。

ちょっと長くなってしまったが、MMTに戻ることにしよう。いま日本でMMTを支持する人たちはスタンスにおいてかなりのバリエーションが見られる。あえて3つに分ければ、理論について本当は興味がなく景気刺激策を引きだしたいだけの土建派、ともかく理論を厳密に探究したいという原理派、そして理論や政治はよく分からないが雇用や福祉がよくなるんじゃないかと期待している信仰派があるように思われる。

もちろん、これは荒い分類ですべてを網羅できるわけではなく、また、それぞれの領域は複雑に重なっていることだろう。したがって、土建派においても原理派のようにひたすら学問的にやりたいと思っている人もいるだろうし、また、原理派のようにみえても自分の立身や利益に役立てたいと考えている人もいるかもしれない。さらに、勉強は嫌いだが自分の満足できない状況からの脱出を考えると、もっと知りたいと思っている信仰派もいるに違いない。

そういうことを踏まえていうのだが、MMTというのはここに書いてきたマルクス経済学や現代経済学の宗教的側面をたっぷりともっている、その意味で倫理的にちょっと危うい経済理論なのである。そもそも、完全雇用がMMTの目標とされてきた経緯からして、この経済「理論」には「救済」が最初から含まれていたといえる(ディスクリプティブ派のなかにはそうは思わない経済学者もいるだろうし、また、日本の土建派は最初からご都合主義的なので、大規模な土建工事さえできればどうでもいいのかもしれない)。

少なくとも、ランダル・レイ、ビル・ミッチェル、ステファニー・ケルトンといった、マスコミに頻繁に登場する代表的MMT理論家たちは、すべて完全雇用を目指してきたし、また、MMTの核心であると公言してきた。そのことで、MMTはマルクス経済学ほどではないが、世界史のなかで救済を試みるイデオロギー的性格、もっといえば宗教的性格を強め続けている。このことは、軽視すべきではないと思う。

他の経済学との論争においては、いうまでもなく自派を防衛する意識が強く、そもそも今の主流派を「間違い続けてきた」と糾弾するあたり、新しい異端のグノーシス派である資格十分といえよう。MMTは理解にはかなりの「認識」や「知識」の再構成が必要であり、ほとんどの経済学を「主流派」と括って自派と峻別する点でも二元論のグノーシス派なのである。ひところ、日本のあるMMT輸入者が「正しい」という言葉を使いたがったが、これもいわばグノーシス派の廉価版であろう。

ケインズ経済学の正統な後継を任じており、ニュー・ケインジアンのことは「まがい物のケインズ経済学」と呼んでいるあたりからも宗教的な匂いを発散させる。さらには、ケインズ、ポスト・ケインジアン、アバ・ラーナー、ミンスキーと、主流派とは系譜を異にする点などは、イスラム教のスンニー派に対するシーア派のようであり、ラーナーとケインズの確執も、シーア派の「アシュラの日」のような、正統なケインズ派が生まれるための試練であるかのように思わせるところがある。

自らを正統として、いわゆる偽正統でしかない主流に対抗しようとするのは、あらゆる宗教に常にみられる宗教史であって、ある意味では健全なことだ。原理派が周辺学説とほとんどスコラ哲学のような定義にこだわる論争を繰り返すのも理解できる。しかし、いまや言葉がしだいに通じなくなっているのは、「バベルの塔」以後の歴史に入ろうとしているのか、それとも、いまの主流を叩き潰して、みずから正統かつ主流になろうとしているのかは、まだ不明といわざるを得ない。

また、あらゆる宗教の歴史が示すように、教義と現実に齟齬が生まれたとき、それを新たな教義で乗り越えるのか、あるいは、行き詰って自滅してしまうのかについても、これから注がれるエネルギーに依存していることなので予測するのは難しい。

今回は長くなりすぎたので、このくらいでやめておくが、最後に、こうした宗教史的な観察は、自分自身にも向けられるのが健全な懐疑というべきだろう。私は基本的に今の経済学が歴史的な課題を解決するとは信じていない。また、経済学それ自体に技術的なことと同時に倫理性が最初から、あるいは内在的に備わっているという考え方は非合理的なものだと信じている。

もし、これから日本において政府がさらに雇用を計画的にコントロールせざるを得なくなった時にも、それは経済学そのものから論理や解決策は出てこないし、ましてや自動的にバランスを生みだす雇用制度などはありえないと思う。その意味で、経済学に救済を求める思想は、実は、常に折衷主義的なのに、MMTの代表的理論家たちは不思議なことに、そのことに気がついていないのではないか。

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