MMTの懐疑的入門(16)「税が貨幣を動かす」という倒錯

 MMT理論家たちがいう「財政赤字はいくらでも持続可能」の欺瞞に加えて、「税金が貨幣を動かす」というスローガンもまた大いなる欺瞞である。これは「政府支出は税金を根拠としていない」という彼らの認識とセットになっているが、これなど単なる倒錯といってよい。

 現代の国家が政府支出を行なうさいに、支出が先に決まってしまうのだから、それは税金とは関係なく行なわれるのだと思うのは勝手だが、こんなことはごく当たり前の話なのだ。予算を立てている段階では、予算年度の歳入も想定額にすぎないのだから、支出の決定が「先行」しているというだけのことである(右図:出典・財務省)。

 では、そうした支出がいくらでも野放図に行なわれているかといえば、そんなことはありえない。そんなことをすればもう近代国家とはいえないだろう。予定されている支出については、なんらかのかたちで財源とか原資を想定していく。それがどうでもよくなったら、財務省がいらなくなるだけではなく、政策の変更を迫られるような激しいインフレや為替の激変が起こり、復旧するのはその国が近代国家の体裁を取り戻したときである。これは私が言っているのではない。他でもない、MMT理論家のレイが、財政赤字を続ければどのような可能性があるかを論じるさいに述べたことで、これは前回触れておいた。

 もし、政府支出がMMT理論家のいうように、税金に基づいていないとすれば、税金はいらないことにならないかという疑問をもつのは当然のことである。ところが、MMT理論家たちは「税は貨幣を動かす」のであって、税金とか罰金とかは政策を実行する財源ではなく、貨幣を流通させるために必要なのだと言い出すのである。これも奇妙な主張であって、まず、歴史的には成立しない。どこに自国の通貨を流通させるだけの目的で、税金を徴収した君主がいただろうか。

 また、現在の貨幣を考えるさいにも、いつの時点からそうなったのか不明である。国家は租税を徴収して成立しており、それが近代以降は防衛や社会秩序の維持さらには福祉を実現するためだという認識が広まってから、すでに百年はたったといってよい。こうした認識にもとづく制度も、さまざまな問題を抱えていながら存続しているにもかかわらず、実は、政治目的とは関係なく貨幣を流通させることが目的なんだと言い出すのは、単に奇説を唱えて注目されたいからではないかと思われても仕方がないだろう。

 なぜ、このような奇説をひねり出したのかを考えるには、もういちどMMTの貨幣観について考えてみなければならない。まず、MMTの理論家たちが、「新表券主義」によって貨幣を解釈して、そこに「商品貨幣説」の残滓すらも認めようとしないのはよく知られている。しかし、奇妙なのはある特定の貨幣が、国家通貨として継続されるのは何故かを論じるさいに、広義の「信頼」とか「信用」への目配りがどこかに行ってしまうことである。

 たとえば、L・R・レイは「入門書」のなかで、国家通貨が通貨でありうるのは、「Aが通貨だと信じていることを、Bが知っているから、Bも通貨だと信じる」のではないという。こうしたいわば間主観主義的な解釈は、「はずかしくて口にすることができない」などと軽蔑の念を露骨に示している。しかし、これはMMTのひとつの土台とされる、内生的貨幣供給理論の「信用通貨論」への、明らかな裏切りが含まれているのである。

 この信用通貨論では、銀行が信用創造によって帳簿上の「計算貨幣」を作りだし、それを他の銀行あるいは企業との取引に使う。それはなぜ使うことができるのだろうか。そもそも信用創造という方法によって、原理的には無制限に貨幣を作りだすという行為は、お互いにそれを受け入れるという相互性を尊重する思考行動様式からしか生まれない。

 そこには信用創造を繰り返す銀行同士のルールがあって、ルールを破る者への処罰がなければ安定したシステムとはなりえない。そのルールは、いまは法制化されて国家が監視するようになっているが、もともとは同業者の相互監視によって維持されてきた。それは「Aが信じている価値をBが知っているので、BはAが信じている価値を損傷しないように行動するのが、仲間であるための条件だ」というルールなのである。

 さて、ここまでMMTの奇妙な貨幣観を振り返っておいてから、そもそも、レイが声高に述べている「税金が貨幣を動かす」というアイディアはどこからきたのか、考えてみよう。レイ自身が長年の貨幣起源論の研究から編みだしたのだろうか。私はそうではないと思う。それをMMT理論家たちの視界内で誰よりも明解に述べたのは、彼らの「聖人」のひとりであるアバ・ラーナーだった(写真:ラーナー『統制の経済学』より)。

 アバ・ラーナーはMMT理論家たちが推奨する1947年の論文「国家が貨幣を創る」のなかで、貨幣が国民にあまねく承認される過程を歴史的に論じようとしてきたが、もし別の方法で論じられたら歴史的方法はいらなくなると言い出し、次のように述べている。

「ただ単にあれやこれやが貨幣だと国家が宣言してもうまくいかない。……しかし、もし国民が納税やその他の義務を果たすさいに差し出す特定の貨幣を国家が受け入れようとするならば、トリックは成就するのである。国家への義務をもつすべての人たちが紙切れでその義務を果たすのを見て、他のすべての人たちも税金や義務がその紙切れで果たせると知れば、こんどは彼らもこの紙切れを受け入れるようになるのだ」

 このアバ・ラーナーの記述は、まだアメリカのドルが兌換であった時代に書かれたものであるのに、それが金によって支えられると言わずに、一足飛びに税金や義務(おそらく労役などの代替)に使われるようになることが、「国家が貨幣を創造する」のに決定的だと述べているのである。そのプロセスにおいて、紙切れで納税や労役代替ができることを見た、他の人びとの反応を介在させている点では、MMT理論家たちよりは、ずっと注意深いといえる。

 アバ・ラーナーは完全雇用の経済学を目指したことで知られるが、そのためには財政を状況に応じて機能的に増減していけば目標は達成できると考えていた。1960年代になって完全雇用になる以前にインフレが急上昇するというスタグフレーションを目撃して、価格統制も理論的に検討したことがある。貨幣については表券主義の傾向が強く、興味深いのは「信用貨幣」を激しく否定するに至ったことである。

 1947年の論文の記述からすれば意外なのだが、財政においては徹底した合理的アプローチによって貨幣を捉えるというのが彼の1951年の『雇用の経済学』以降の考えだった。曖昧さが残る歴史的アプローチをとったり、貨幣の成立に信用あるいは信頼を見出すのは貨幣をいたずらに神聖視するものであり、そもそも誤りだと考えるようになったわけである。

 しかし、やはり歴史的な検証は必要である。たとえば、フランスで初めて紙幣を発行したジョン・ロー(絵図:A.Murphy1997より)の場合には、紙幣で税金を払うことを国家として認めたにもかかわらず、それまでの金や銀といった正貨にとってかわることができず、5年ほどの間に紙幣の価値は暴落して、結局は使われなくなってしまった(納税できる紙幣の創始者:ジョン・ローの肖像(2))。

 この当時、フランスの王室財政は危機であったが、フランス王国じたいはまだヨーロッパ随一の経済力を維持していたから、何らかの外的な混乱によって挫折したわけではなかった。もちろん、そこには反対派が存在したし多くの障害もあったが、そんなものは今の改革でも同じことである。むしろ、彼自身があまりに急な貨幣改革を断行したことで、当時のフランス経済に激しい混乱をもたらしたのである。

 こうした歴史的な出来事をあげると、かならず「それは現代とは条件がちがう」と反論する人がいるが、もともと歴史的な事例をあげるのは、現代と同じだと考えるからではなく、いくつかの条件を取り去っても、現代への参考あるいは警告になると思うからである。アバ・ラーナーも最初は歴史的に説明しようとして、決定的な論理が見つからなかったので、前述のようなトリックを導入したが、紙幣の成立には歴史的な時熟による信用や信頼が必要だったのだ。

 MMT理論家のL・R・レイは、こうした歴史的な経緯をまったく切り離し、社会的なプロセスやそこに働く社会心理的な要素を軽蔑するという姿勢で、あたかも正しい論理を見つければ説明できるかのように語っている。貨幣の起源について延々と歴史的考察をしているのに、自分の気に食わないテーマの場合には歴史はいらなくなるらしい。

 したがって、銀行間に発達した信用貨幣と国家が国民との間で成立させた貨幣の接続では、説得力のある理論を与えることに成功していない。現実において中央銀行の貨幣と信用貨幣が接続しているのは、数百年間の諸国における中央銀行の積み重ねによるものであって、決してMMT理論が創造したものでも発見したものでもない。

「MMTは、貨幣が租税などの強制的な義務を履行するのに必要とされる限り、そうした義務が貨幣に対する需要を創造すると主張する。つまり、納税者が貨幣を必要とするので、政府は貨幣を発行してモノを買うことができる。……政府の支出を『賄う』ために租税は必要か? 必要ではない。租税は貨幣に対する需要を創造するために必要なのだ」(邦訳より)

 普通の高校生でも、世界中に貨幣ではない税がいくらでもあったことを知っている。日本などでは、江戸時代までコメによる納税が行なわれていた。にもかかわらず、同時期に貨幣経済がすでに十分に発達していた。途中から融合し始めるが、しかし、完全に貨幣での経済に統合されたわけではなかった。それが決定的に変わるのは、ほぼ完全に貨幣経済に移行していた欧米と政治および経済において関係を密にするためだった。これも歴史的な考察を抜きにした、形式的なロジックだけでは説明不可能である。

 政府支出の決定が先行して、それから税金や国債によって財源を創りだしていくという現在の財政は、たしかに危うい側面をもっている。しかし、それは変化の大きな現在の国家と世界のなかで、迅速な対応をするための技術であるといえる。MMTはそうした擬制の意義を無視して、たんにそれが現代における貨幣現象の大発見であると倒錯しているにすぎない。

 租税は政府の支出を制限しないと唱え続けるのは、現実の財政をディスクリプティブに表現しているわけでもなく、政府の支出が常に財源を根拠としているという現実も無視している。しかも、すでに前回述べたように、財政赤字は持続可能という話も、著作やインタビューでは無造作にばらまいているが、いったん厳密に論じようとすれば多くの制限が存在することが暴露されるのである。

 財政赤字の持続可能性も、税金が政策の根拠ではないというのも、現実ではなくMMTのイデオロギーであり、単なる願望だとすらいえるだろう。しかし、この願望は税金がなんらかの形で政策として返ってくると漠然と信じる国民のイメージを破壊して、政治的にも経済的にもマイナスの影響を生みだしている。次回はMMTにみられる政治へのあまりに素朴な認識について論じることにしたい。

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