納税に使える紙幣の創始者:ジョン・ローの肖像(2)

 前回、ジョン・ローの生涯を駆け足で紹介したが、では、彼がいかがわしい経歴をもちながら、なぜ、フランス王国という当時はヨーロッパ最大の大国の財政をまかされることになったかについては、あまり述べていなかった。

 もちろん、ヨーロッパ中を歩き回って博打で巨万の富を手にしたという経歴の意外さや、貴族社会の婦人たちを誑かすだけの美貌と話術を身につけていたこともあっただろう。しかし、それとともに各地で獲得した金融についての見聞と、それを自分なりに組み立てて政策として提示する構想力が、財政危機にあったフランスの貴族を魅了したのである。

 そのなかでも特記すべきは、それまで中央銀行のなかったフランス王国において、まがりなりにも「バンク・ジェネラル」(後に「バンク・ロワイヤル」)と呼ばれる中央銀行を創設し、また、新大陸にあったフランス王室の資産であるルイジアナ(ミシシッピー川流域をすべて含む)を担保に、株式を発行して「インド会社」を設立し、巨額の資金を集めたことである。

 当時、フランスは絶対王政時代の頂点にあり、農業を中心にしたヨーロッパ随一の富裕国でもあった。そのいっぽうで、「太陽王」と呼ばれたルイ14世が周囲の国と戦争を繰り返したこと、そして王宮での贅沢三昧のために、フランス政府は巨大な借金を負っていた。その金額は、当時のフランス王国における国内総生産の2倍に達していたといわれる。

 ただし注意すべきは、フランス全体で見た場合には、生産力のある豊かな国土が広がっていたことだ。たとえば、約70年後にやってくるフランス大革命期のように、革命政府の収奪によって社会が疲弊しているということはなかった。問題は国土に富があっても、フランス政府があまりにも巨額の借金をしていたので、さらなる借金どころか、税金もとりにくくなっていたのである。

 徴税の達成率が低下していた理由としては、フランス全土の徴税(代理)権が旧来からの貴族や金融業者などの「請負人」にあったことがあげられる。彼らは、本来、フランス政府の税金を徴税して一定の割合を手数料として受け取ったのちに、残りを全部政府に渡さなくてはならなかった。しかし、さまざまな理由をつくって引き渡すまでの期間を引き延ばして運用益を得るとか、金額を誤魔化すなどの違法が横行していた。

 それでも、ルイ14世が健在のころはまだよかった。ルイ14世の威光によって有力な貴族たちや彼らに味方する役人たち(いわゆる法服貴族)を押さえつけることができたからである。ところが、ルイ14世が1715年に急逝すると、俄然、有力貴族と法服貴族たちが徴税権をめぐって陰に陽に抵抗を示すようになっていく。

 王位をついだルイ15世はまだ五歳と幼かったので、叔父のオルレアン公が摂政となって大胆な負債踏み倒しを断行したが、それでもなお追いつかなかった。そもそも、税金の集まりもルイ14世の死後には悪くなっていたのである。そこで、思いついたのは貴族が出入りする賭博場でスターとなっていたジョン・ローの案だった。ジョン・ローはすでにオルレアン公に近づいて、次のような原案を渡していた。

「紙幣を発行できる国立銀行を設立することをご許可いただければ、すべての政府の負債を紙幣に転換して、銀行の利益はその四分の三を王室に提供いたします。そうすればフランスにとって驚くべき有益な効果を生み出すことができると存じます」

 1716年、オルレアン公は周囲の反対を押し切って、ジョン・ローの提案にしたがい、まず民間ということにして「バンク・ジェネラル」を創設し、ジョン・ローを総裁にすえた。ジョン・ローは期待に応えて、すぐさまそれまで考えていた構想を実行に移した。もちろん、紙幣を発行するのだが、この紙幣はフランス政府に対する債権証書と同額を引き換えができるだけでなく、以降、その紙幣をもちいて納税ができるとされていた。

 この納税ができる紙幣という発想は、どこまで遡ることができるかは分からない。しかし、少なくともフランス王国では初めての試みであり、それどころか紙幣そのものも、フランスでは初めてであった。この効果は絶大であり、巨額の政府負債を回収するだけでなく、徴税代理権をもっていた貴族やその協力者である法服貴族への大きな打撃となった。

 この紙幣発行の成功に気をよくしたオルレアン公は、バンク・ジェネラルをバンク・ロワイヤル(王立銀行)と改称することを許し、さらには、ジョン・ローのもうひとつのプランである「インド会社」の設立(事実上は先行会社の改組)を許した。

 このインド会社とバンク・ロワイヤルの出資によって、「ミシシッピー会社」が設立され、前述のように北アメリカ大陸にあるルイジアナの開発を謳って株式を公開したので、たちまちのうちに資金が集まり、フランス中がミシシッピー株ブームに沸いたのである。

 こうした仕組みを後世の経済史家たちは「ジョン・ロー・システム」と呼んだが、もちろん、何から何までジョン・ローが独自に考えたわけではない。まず、バンク・ロワイヤルはヨーロッパ中の放浪時代に学んだ銀行、とくに英国銀行から多くのアイディアをもらっていた。また、インド会社およびミシシッピー会社のほうも、やはり先行していたイギリスの東インド会社と南海会社を参考にしていたことが分かる。

 しかし、このジョン・ロー・システムは1720年には崩壊して、ジョン・ローは生命の危険にさらされ、フランス国内から脱出せざるをえなくなる。このときジョン・ロー・システムを激しく攻撃し、場合によれば大損を覚悟で株式を売り浴びせたのは、徴税代理権をもっていた有力貴族たちだったといわれている。

 ジョン・ロー・システムの細かい組み立てとその崩壊については、改めて述べることにしたいが、今回、注目しておきたいのは、金貨や銀貨といった法貨とは別に紙幣を発行したさいに、ジョン・ローは紙幣によって納税が可能であるようにしていたことである。

 紙幣といったそのものには何の価値がないものを通貨として流通させるには、その紙幣によって納税ができるものとすることで可能になると論じたのは、1947年のアバ・ラーナーの論文だったが、実は、それ以前にもすでにジョン・ローが、1715年にフランスの紙幣創設のさいに実践し、仮初めの成功を見せ、そしてほどなく挫折していたのである。

 もちろん、アバ・ラーナーが論文で述べたときにドルは不換紙幣ではなく、近年、MMT理論家たちが論じたときとは条件が異なるだろう。ましてや、ジョン・ローの紙幣は、まだ金貨や銀貨が正貨として流通していたし、ほとんど開発が進んでいなかったミシシッピー会社の株式暴落に引きずられなければ、もう少しの間は彼の紙幣が生き延びたかもしれない。

「もし、わたしが負債の始末もおわされていなければ、フランスの繁栄を実現するのはもっと容易だった」というのがジョン・ローの悔恨の言葉といわれている。しかし、そもそも、巨大になった政府(王室)の負債という問題がなければ、あやしげな人物であるジョン・ローにチャンスがめぐって来るはずもなかった。そしてまた、成功の望みがあるとすれば、フランスの潜在的な経済力と社会の安定性だった。

 とはいえ、ジョン・ローの紙幣から約70年後にも、フランスは再び「アッシニア」と呼ばれる紙幣を発行して革命の成功を企てるが、このときにはフランス社会そのものが不安定な状況にあり、そこに新しいシステムに対する信頼の生まれる可能性は低かった。それに比べれば、ジョン・ローの紙幣は多くの条件においてまだ有利だったと思われる。

 にもかかわらず、フランスはこのとき紙幣をもつチャンスを生かすことができなかった。また、納税ができる紙幣というアイディアもこのときには生き延びることができなかったわけである。多くの条件が21世紀の貨幣とは条件が異なっていることは確かだが、貨幣の起源論や貨幣システムの本質論を考えるさい、依然としてジョン・ローの紙幣は多くのことを示唆してくれているように思う。

(なお、図版はすべて、A.Murphy 1997 より)

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