MMTの懐疑的入門(14)信用貨幣論の逸脱

 MMTが議論の中心に据えている貨幣は、「信用貨幣」だということになっているが、実は、そうではない。たしかに、信用貨幣は現代経済のなかで中心的な役割を果たしているといっていいが、MMTやその信奉者が主張している政策を実現するために動かすとしている「ソブリン・マネー」は、けっして信用貨幣とは呼べないからである(前回の第13回もお読みいただければ、分かりやすいと思います)。

 まず、信用貨幣とは何かから考え直してみよう。信用貨幣とは銀行貨幣であって、それは帳簿上のものでしかない。民間企業や家計が民間銀行から融資を受けることによって生まれるのが信用貨幣であって、それが必ずしも民間銀行に蓄えられたものではないことは、信用創造の仕組みを知っていれば抵抗なく理解できるはずだ。

 この信用創造によって民間銀行は「あたかも空中から生み出すように」して貨幣を生み出し、その貨幣は数値として金融システムのなかを動き回って経済を拡大していくが、貸方と借方はつねに同額であるのだから、その総和もゼロなのである。

 この信用貨幣を成り立たせているのは、すでに述べたように帳簿に記載された数値の整合性である。それが電子化されて回線を通じて動きまわるようになっても、数値の整合性は変わらない。この数値の移動を可能にしているのは、貸方と借方との信用関係であり、双方に信用関係がなければなりたたない。

 この信用貨幣の仕組みは、英国のポスト・ケインジアンによって詳細に分析されてきた。とくに、内生的貨幣供給論に立つ経済学者たちによって研究され、また、激しい論争を繰り返すことで把握の方法に修正がくわえられていったが、信用貨幣はあくまで民間銀行、民間企業、家計といった民間部門の信用の問題なのである。

 とはいえ、この信用貨幣の仕組みはルールとして確立されているが、ルール違反者がいないわけではない。会計の改竄や取引の隠蔽、あるいは詐欺などによって信用貨幣の根幹である信頼性を損なう事態が生まれる。

 この事態の原因となった違反者を罰するのは、昔は信用貨幣を扱う者たちの間で行われたこともあったようだが、いまでは法制度によって行われる。いわば違反者に対しては国家権力が姿を現すのである。したがって、現在は信用貨幣の時代だといいながら、そのルールの保障者として国家権力がかかわっている。

 この国家権力は、こうして信用貨幣の保障者として常に監視を行っているのだが、もうひとつの重要な経済的役割をもっている。それは国家の経済全体を維持活性化して、国民生活を豊かにするという役割である。もし、国家経済が停滞して国民の生活が困窮するようなことがあれば、経済政策によって再活性化に向かわせようとするのである。これは必ずしも信用貨幣を成り立たせている信用システムだけを通じてのものではない。もちろん、信用システムを利用しようとするが、それだけでは不可能なのである。

 具体的にはそのとき政権にある政府が、国民の支持を得た金融政策や財政政策を強い権限によって実施することで、この目的を達成しようとする。ここには、実は、貸方と借方の信用関係と法制度からなりたっている信用貨幣のシステムではなく、有権者と政権との間の政治的プロセスが入っているわけである。

 こうした前提のもとにMMTの貨幣論を見直してみよう。MMTは内生的貨幣供給論を展開してきた研究者たちのなかから生まれてきたことは確かである。したがって、MMT理論家たちは、自分たちの貨幣論は信用貨幣論を基礎にしていると主張する。

 しかし、その半面、MMT理論家とくにL・R・レイなどは、さかんにクナップの貨幣国定説やイネスの計算貨幣説を導入してきた。さらには、考古学や歴史学における知見のなかから、何らかの「負債」が貨幣として成立していった過程を描き出そうと努力してきたのである。

 これは、内生的貨幣である信用貨幣の貸方・借方に見られる債権・債務の関係と同じものを、国家の経済政策に使われるソブリン・マネーと接続するために行った、知的であると同時に、使命感をもった情熱的な試みであったといえるかもしれない。しかし、MMTは内生的貨幣供給論の延長上にあるというが、本当はかなり逸脱しているのではないか。

 すでにお気づきになった読者もおられることと思うが、この試みには根本的に矛盾が含まれており、それがMMTの主張に反映している。そしてまた、この矛盾におそらく気がついていながら、日本のMMT論者たちの一部は、自分たちの目指す当面の財政出動を唱えるため、この矛盾に満ちた接続を偉大な発見であると称賛することで、MMTに厳然としてある矛盾を糊塗してきたと思われる。

 内生的貨幣供給論の立場からすれば、民間銀行を中心として行われる信用創造は間違いなく信用貨幣論で論じるべき現象である。それが商品貨幣論の唱えるように「自生的」であるか否かに関わらず、そこには貸方と借方との間の信用形成が前提として存在する。そしてまた、そのルール違反者を裁くのが同業者内の自治でなく、政府が法制によって行うようになっても、中核にあるのは信用貨幣の信用創造にほかならない。

 しかし、MMTにおける「ソブリン・マネー」の供給と引き揚げについては、実は、まったく事情が違う。まず、たとえば完全雇用という政治的な目的を達するため、財政出動を続けてそのためのファイナンスを、ソブリン・マネーによって政府の判断だけで実行できるというのだが、それは先ほど述べた政治的プロセスをまったく無視したことになる。

 MMT理論家は、財政赤字があっても政府がソブリン・マネーをいくらでも発行できるというのだが、それには政治的なプロセスを踏んで、その規模や速度について議会の承認あるいは財政に関するすべての委任を受けていなくてはならないはずである。

 それがあたかも政府だけの独断で、しかも即座にできるように論じてしまっているのは、ソブリン・マネーを無限に使いたいという欲求だけでなく、古代国家における収奪であったかもしれない徴税や罰金が、負債としての貨幣つまり信用貨幣の起源だと信じ込んでしまったからではないのだろうか。

 これはもちろん間違いで、税金を払えない者に古代国家の官吏は「これはお前の負債だ」といったかもしれないが、逆に、税金を払ったからといって古代国家は行政サービスを約束したわけではなかった。そうした「信用関係」で社会は構成されていなかった。もちろん、古代エジプトのピラミッド造営への労役も、ファラオへの崇拝によって喜んで行われたとの説もあるから、そう簡単にはいえないが、貸し借り関係と受け止めて年貢を喜んで払う古代国家の農民の話など、考古学でも歴史学でもまったく聞いたことがない。

 こうしてみれば、現在においても民間部門を巡っている信用貨幣と、MMTが論じている国家財政のなかの政治的意図という意味でのソブリン・マネーは、類似している部分があっても別のものであり、それを巧妙に接続したかのように見せているのが、現代国家のなかの中央銀行制度である。そのことを詳細に探究したのは、皮肉なことにMMTの起源のひとつである内生的貨幣供給理論だったのではないか。とはいえ、この擬態的接続を根拠にして、すべての権限の正当化ができるかは疑問だろう。少なくとも古代国家の政治的プロセスと、現代の政治的プロセスをご都合主義的に同一視することは錯誤である。

 政府と民間との関係は貸方と借方の信用関係ではなく(もちろん、行政が購入して民間が納品するという経済関係はあるが)、まずは政治的プロセスを介した政治関係と見るべきだろう。そして、政府だけの判断で即時の独断的なソブリン・マネーの支出や引き揚げができるのは、現代では全権委任を受けた全体主義国家だけである。

 MMTの推進者たちが根本的に奇妙なのは、これまでの貸方と借方にかなり似た徴税と行政サービスの交換といった「信頼関係」を破壊してしまい、政府の都合だけによる一方的なソブリン・マネーの支出と引き揚げに替えようとしていることである。そんな「理論」が、現実に国民によって受け入れられるわけはなく、また、受け入れたとすれば、国民が財政独裁国家を承認したときだけだろう。

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