フク兄さんとの哲学対話(6)オッカムからクザヌスなど

暑い夏になってしまったので、今年も外には出ないようにしていたが、フク兄さんは元気そのもので、呼びもしないのに暑気あたりのお見舞いだといってやってきた。準備をしていなかったので慌てたけれど、フク兄さんは「このあいだの続きをやりたい」という。例によって( )内はわたしの独白である。

フク兄さん このあいだのショーン・コネリーの話、もう少ししてみたいと思ってのう。彼とはちょっとした付き合いがあって(え? そんな話、聞いたことないぞ)、不義理はしたくないのでな。

わたし え~と、このあいだは、ショーン・コネリーが演じた映画『バラの名前』の主人公ウィリアム・オブ・バスカービルのモデルになった、ウィリアム・オブ・オッカムの話を少ししたわけだけれど。ウィリアムは中世末期の修道士で神学者兼哲学者であり、たとえば、「人間」とか「動物」とかの普遍名詞は実在するのではなくて、ただ人間の都合で名前を与えているだけだと論じたんだ。

フク兄さん ふ~ん、で、それにどんな意味があるんじゃ?

わたし たとえば、動物という普遍名詞はよく使うけれど、だからといって動物という存在があるわけではない。ウンベルト・エーコの小説『薔薇の名前』では、師のウィリアムが僧院のロバの名前が「ブルネッロ」であると言い当てて、弟子のアドソを驚かせるくだりがある。驚嘆しているアドソにウィリアムは「遠くからみたらそれは物体であることはわかり、近づくにつれて動物であると判断できるようになり、その動物がもっと近くなると馬だと断言でき、目の前にやってくればブルネッロ(青毛)であることが認識できる」などと、彼のいう直観的認識について、若い弟子に延々と教え諭すことになっている。

フク兄さん ふん、ふん。映画でいえば、いわゆる「鬼軍曹もの」じゃな。

わたし でも、神学や哲学の歴史から見れば、もっと大きな衝撃となりうる。たとえば、カトリック教会が提示していた世界観は、多くの普遍名詞によって組み立てられていたけれども、それが実在ではなく人間によって作られた名辞にすぎないとなれば、世界像も人間が生みだした作り物であって、必ずしも神が創造したものとはいえなくなる。ウィリアム・オブ・オッカムが、宗教と政治を分離することを唱え、教会と帝国が並び立つべきだと主張するに至るのは、こうした彼の唯名論と結びついていたわけなんだ。

フク兄さん なるほどなあ(あんまり興味持ってないな、目がうつろだもの)。え~と、話が佳境を迎えつつあるところで、どうだ、少しだけ入れては(ほら、きたよ)。

わたし え~と、今日は急な話だったので、好きな銘柄かどうか分からないけど、あることはあるんだ。でも、くれぐれも言っとくけど、途中で寝てしまわないようにね。

フク兄さん おお、銘酒「男山」ではないか。じゅうぶんだぞ、おっとと………ぷふぁ、これはいい。アドソよ(あ、誰がアドソなんだ。ウィリアム気取りか)、しっかり辛口、北海道の男の酒だ。お前もこういう酒をのまねばならぬぞ。

わたし ウイリアム・オブ・オッカムの哲学は、自然科学での分類法に通じていたので、近代の自然科学の発展に大きな寄与をしたといわれているけど、こうした神学者による自然科学への道づけはたくさんあった。じゃあ、ウィリアムみたいに教皇権に反発した人間だけがそうした道を開拓したかというと、そうでもなくて、ニコラス・クザーヌスなんかは、ルネッサンス的人間の先駆者といわれるけど、ローマ教皇庁の外交官で枢機卿だった。

フク兄さん ニコラス? 知らんなあ。たしか、ピザ屋にあったような……。

わたし 日本ではあんまり知られてないけど、ヨーロッパの哲学史を論じるには欠かせない大物であることはまちがいない。彼の有名な本は『無知の知』というんだ。ま、自分は本当は何も知らないということを知ることが、もっとも賢明なことだという意味になるのだけれど……

フク兄さん ああ、それはわしも聞いたことがあるぞ。バカに見える者が、実はいちばん悧巧なんだという意味じゃろ。

わたし もともとはギリシャのソクラテスがいったと言われるけれども、ソクラテスは「わたしは、知らないことを、知らないと思っている点で、わかっていると思っている者よりも知恵があるようだ」といったらしい。フク兄さんが聞いたというのは「大智は愚の如し」とかいう言葉じゃないかな。これは北宋の高級官僚で詩人の蘇東坡が言った言葉で、老子も「大賢は大愚に似たり」といっているらしい。

フク兄さん ほっほ、やっぱり、わしのことじゃのう(え? どこが)。

わたし たしかにクザーヌスの言葉と共通性があるけれど、クザーヌスの場合にはこれが数学的な手法で書かれていることなんだ。彼は数学にも優れていて、抽象的な議論も得意だった。たとえば、『無知の知』のなかには「もしも無限の線があるなら直線であり、三角形であり円であり、球体である」とか言っている。ソクラテス的な逆説や東洋的な悟りとはちょっと違うんだ。

フク兄さん なるほどのう。悟りというものは奥がふかいのう。

わたし 興味深いのは、神について論じて、それが「1」なんだといっていることだね。これは絶対者を「1」とした新プラトニズムに近いんだけど、クザーヌスの場合は神が「無限」でもあるから、そのなかには「多」も含まれていることになる。「唯一にして多」というのが彼にとっての神なんだね。

フク兄さん ………

わたし 「1」として数学的な素養で論じているところは、後のスピノザの『エチカ』とも似ているんだけど、やっぱりクザーヌスの場合には、かれが教皇庁の外交官として活躍して、トルコ帝国の脅威に対してローマ教会とギリシャ正教との連携を画策していることが面白い。蘇東坡は高級官僚としては挫折したけど、クザーヌスは最後まで出世して枢機卿だからね。異常なところのある天才というよりは、バランス感覚を備えた飛びぬけた能才というべき人間だったのかもしれない。あれ?

フク兄さん ………

わたし 兄さん、兄さん、まだ寝ちゃだめだよ。兄さん!

フク兄さん ……おっ、なんじゃ、アドソよ。夜も更けた。そろそろ、調べにでかけようか。

わたし しょうがないなあ、まだ、ショーン・コネリーのつもりなんだ。今日はこれでやめておくね。クザーヌスについてはもっと話したいけど、別の機会にするよ。

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