フク兄さんとの哲学対話(5)

あんまり間があいたので、今回はフク兄さんのほうからお誘いがあった。わたしのほうは、涼しい夏になるかと思っていたら、あっという間に暑くなったので、ややバテ気味だけれど、フク兄さんは意気軒高。要注意だな、これは。例によって( )内はわたしの独白。

フク兄さん お前は昔から夏に弱かったが、その点、さっぱり進歩していないのう。

わたし お酒の量も減らして、運動もなるだけするようにしてるんだけど、夏の暑さだけは克服不可能だね。それより、フク兄さん、そんな厚着しているのに、元気そうだなあ。

フク兄さん そりゃ、鍛え方が違うからのう。ところで、このあいだ、歴史をコンキョにするだとか、心理をコンキョにしているにすぎないとか言っていたが、聞いているとだんだん変な気分になった。コンキョがあれば分かるのかのう。そもそも、人間にそんな能力があるんじゃろか。

わたし いきなり大問題をふってくるんだな。(そうか、これで俺を困らしてやろうというわけか)

フク兄さん お前が持ち出してくる偉そうな人たちというのは、なんか、どんな難しいことでも、必ず答えがあって、ともかく頭を使うと解決できると思っているようじゃな。

わたし 哲学者たちは、それほど傲慢なわけではないけど、いちおう哲学史というのは西洋の思想史だからね。それで考えれば、中世には神さまが絶対的な存在だということになっていて、そこから、じゃ、人間がその絶対的なものに近づけるか、神の意図が読み取れるか、というふうに発想してしまう。それで哲学者たちは、兄さんからすると自分が神さまになろうとしているように見えてしまうんだよ、きっと。

フク兄さん もし本当に神さまになれるんなら、そこらじゅうに神さまがいることになるから、西洋も八百万の神になってしまうのう、ほっほっほ。(まったく、何いってんだか)

わたし だから、それはおかしいだろうというのが、このあいだ話しかけたヒュームの懐疑論なんだよ。ヒュームから大きな影響を受けたカントなども、人間には神さまの領域は、最初から分からないように出来てると言い出す。

フク兄さん そりゃ、そうじゃな。でも、そのいっぽうで、歴史を見てれば神の意図が分かるという話もあったわけじゃろ。

わたし そうなんだ、いっぽうで人間の能力の限界を認めていながら、やっぱりそれじゃ物足りなくなって、歴史とか超越とか言い出すんだ。でも、人間の能力に懐疑的な思想が生まれたのは、古代ギリシャにさかのぼれるし、実は、神さまを絶対的としていた中世でも、すでに懐疑論が、ほかでもない神学者からでているんだね。

フク兄さん ほう、ほう。……では、そろそろ、出してもらおうかのう。

わたし (ちょっと早いけど、ま、いいか)今回はこちらの都合で迷惑をかけたから、早めにだすけど、いつもこうじゃないからね。え、コップ? ぐい飲みくらいにしておいたほうがいいよ。

フク兄さん おお、今回は朝日山か。おっとととと、……ああ、うまい。お手頃な朝日山でこのうまさなら、値段の高い久保田はいらないな。

わたし 話をつづけるけど、中世末期になると、さっき言った神の絶対性がなぜ人間に分かるのかということで、神学者たちがあれこれ議論を始めるんだ。でも、その上には教会がそびえているわけだから、議論のやりかたを一歩間違うと異端審問にひっぱりだされて、坊さんとしての資格が剥奪されるだけでなく、著作はすべて焚書にされ、場合によっては火炙りにされることだってあった。

フク兄さん ……、ふむ、ふむ。……うまいのう。え、あ、ちゃんと聞いておるぞ。

わたし かなり極端な例だけれど、ウィリアム・オブ・オッカムという神学者で哲学者なんかは、一般名詞はたんなる言葉にすぎないといいだした。これは神学的にはかなりやばいものを含んでいたんだ。つまり、……あ、このウィリアム・オブ・オッカムというのは、ウンベルト・エーコの小説『薔薇の名前』に出てくるウィリアム・オブ・バスカーヴィルのモデルだといわれ、映画ではショーン・コネリーが演じたんだけれど……。

フク兄さん ショーン・コネリーか。わしは、しばしばショーン・コネリーに似ているといわれてのう。(え、どこが?)ふむ、ふむ、ウィリアム・オブ・バスカーヴィルだな。

わたし バスカーヴィルじゃなくてオッカムのほうだけど、普遍概念たとえば動物という言葉は、馬とかロバとか犬とかを括る言葉なわけだけれど、それは別に存在するわけではない。動物というものがあるわけではないからね。それは、オッカムによれば単に人間の都合で使われているだけのことなのだ。ということは、神とか摂理とかいう抽象語も、ただ単に便利だから使われている言葉にすぎないということになってしまわないか。

フク兄さん ……、あ、大丈夫、ちゃんと聞いとるよ。

わたし こういうのを唯名論というんだけど、言葉は必ずしも実在するものを指し示すのではなく、普遍概念や抽象語は言葉だけで実在しないものがあると主張する。それに対して、言葉があれば必ずそれは実在すると考えるのが実在論ということになる。もちろん、教会は神学に出てくるさまざまな言葉は実在するとしてきたわけで、それが唯名論によって揺らぐのは困ったことだったわけだよね。ウィリアムはさらに哲学と神学を分離すべきだとも考えていた。これも教会からすればとんでもない話なわけ。

フク兄さん ……………

わたし え~と、それでウィリアム・オブ・オッカムは、結局、教会の異端審問にかけられられることになって、当時、法王庁があったフランスのアヴィニヨンにやってくるんだけど、同じように異端審問にかけられそうになっているミケーレ・ダ・チェゼーナといっしょに脱出してバイエルンにいた神聖ローマ皇帝ルードヴィヒ4世に庇護をもとめた。2人はルードヴィヒの本拠地のミュンヘンで著作を続けることになる。つまり、世俗の権力に泣きついたわけだけど、ルードヴィヒはこのとき法王と対立していたから、この2人は利用価値ありとみたわけだろう。また、ウィリアムのほうもルードヴィヒ4世が死去すると、こんどは法王庁との関係を修復しようとしたりしている。つまり、このウィリアム・オブ・オッカムは修道僧とはいえ、かなりしたたかな政治家でもあったんだね。

フク兄さん ………あっ、そうじゃ。(わっ! 急に目を覚ますなよ)それで、ショーン・コネリーはどうなったんじゃ? 彼は人間の能力について、どう考えていたんじゃ。

わたし ショーン・コネリーじゃなくてウィリアム・オブ・オッカムは、彼が切り開いた唯名論による哲学的思考によって、周囲の神学者や哲学者たちに大きな影響を与えることになる。神学者たちのなかから、なぜ、人間が神の意図をくみ取れるのか、ほんとうは分からないではないかと論じる者もあらわれたし、ウィリアムと同じように神学からしだいに遠ざかって哲学に向かう者も出てくる。それで微妙なのが、話は飛躍するけど、エーコの『薔薇の名前』の語り手であるアドソという見習い修行僧、つまりノービスだね。彼は後年、ウィリアム・オブ・バスカーヴィルと共に体験した殺人事件を手記にまとめたことになっているんだけど、その締め括りのラテン語が「きのうのバラはただ名のみ。そのむなしき名を我らは手にする」という詩の一部なんだ。これは歴史的に実在した詩で、歴史家のヨハン・ホイジンガが『中世の秋』のなかの「死のイメージ」という章で引用しているんだ。

フク兄さん たしか、安倍首相がイランに行ったとき、アメリカの新聞に「ノービス」といわれたことがあったのう。ヒック

わたし 安倍首相はともかく、このアドソというノービスは歳をとってからの手記にこの詩の一句を記したわけだけど、これは果たして唯名論なのか、それとも実在論なのかという、いってみればどうでもいいような論争がある。ま、その話を含めて、ショーン・コネリーじゃなくウィリアム・オブ・オッカムたちが、人間の能力をどう考えたかは、次にまわすことにするね。(ああ、なんだか疲れた)

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