ウクライナ戦争と経済(16)日本はインフレからスタグフレーションに向かう

生鮮食料を除いた消費者物価指数が2.1%に達したので、日本はデフレ基調を抜け出し、欧米と同じようにインフレ時代に入るという人がいる。逆に「日本は特別」なのでインフレになどならないとの主張も多い。しかし、いま日本に迫っているのは、インフレと不況とが同時に進行するスタグフレーションではないのか。

まず、日本のインフレについて見ておこう。ウォールストリート紙5月20日付は「日本が望んでいたインフレがついにやって来た。しかし、望ましい理由からではない」という記事を掲載している。リードは「中央銀行のターゲットは達成されたが、エネルギーの高騰や原材料のコストへの憂慮が生じている」ということで、いやな副反応など伴わない2%を超えるインフレがあるかのようである。

「日本においては、企業は商品の価格をあげようとしているが、それは、購買意欲が上昇して高い賃金を払おうとしているからではない。それは、原材料が高騰しているから、いやおうなく価格に上乗せしているのだ」

たとえば、サントリーはペットボトルのミネラルウォーターや缶コーヒーを含め、商品の半分以上がその対象となり、上げ幅は6%から20%を予定しているという。また、プリンターメーカーのセイコー・エプソンは、原材料や輸送費の値上がりのため、プリンター、スキャナー、インク、その他の価格を12%上げることになりそうだという。

しかし、同紙が指摘しているのは、2.1%というのは単に生鮮食品を除いた指数の値で、生鮮食料とエネルギーを除いた指数、つまり欧米でのコアCPI(日本でコアコアCPI)の値は0.8%に過ぎない。これだけの上昇では、とても賃金をあげようという圧力にはならないので、このまま日本が欧米のようなインフレ基調に移行するとは思えないというわけである(図版ft.comより。以下同様)。

日本のインフレについて取り上げている海外メディアは多くあるが、フィナンシャルタイムズ紙5月20日付は「『日本はアメリカとは違う』:なぜ日本はインフレを憂慮しないのか」との記事を掲載している。リードは「数十年の不況のはてに、労働者はもう高い賃金を要求しないし、企業は値上げをしようとしない」というもので、なんだかこれだけ読むと、日本人は給料は安くてもよくなり、企業は商品を安く売り続けているようにも読める。

もちろん、そういうわけではなく、この記事に登場する経済評論家は、日本人に染みついてしまったデフレ体質のせいで、「日本では輸入品が高くなってもそれがインフレではなくデフレに結びついてしまい、たとえ多少のインフレが生じても、その継続性が考えられないほどになっている」と述べている。

同紙は日本の特別な情況を考慮して、なぜ日本が他の先進国よりインフレ率が低いのかを3つ挙げている。第一に、菅前政権が推進したスマホ料金の引き下げが、本来のインフレ率を隠してしまっているという。第二に、経済活動がパンデミック以前のレベルに回復していないことが挙げられる。第三に、円安になっていても、かつてのようには輸出を加速する効果を生み出していない。中国がオミクロン株で経済停滞に陥ったため、サプライチェーンが機能不全に陥っており、それがインフレ率を押さえているというわけである。

こうした足元の状況があるだけでなく、全体としては、ウォールストリートもフィナンシャルタイムズも、日銀の黒田総裁の談話を支持するかたちとなっている。黒田総裁によれば「価格の上昇は短期的にはエネルギーの価格上昇によって生じているもので、これが継続するとは思われない。中長期で見た場合には、急激なインフレ上昇は予測されていない」というわけである。「日本経済にとっての決定的な状況がまったく欧米とは異なるのだ」。

ということは、日本は中長期的にいまの欧米なみの8%台とか9%台のインフレは考えなくてよいということだろうか。どうもそうではないように思われる。日本や世界のアナリストたちも黒田総裁も、共通して指摘しているのが「日本は欧米とは異なる」ということだ。しかし、その「異なる」とされる要素は何なのだろうか。

まず考えられるのは、日本経済が構造的に「異なる」ことである。たとえば、これまでしばしば指摘されてきたように、日本の「貯蓄」および「貯蓄率」のレベルが低いために、企業は投資を行わず、消費者は支出をしないということが挙げられる。ことに最近若い人たちに広がっている認識は「政府が財政支出を抑えているので民間の貯蓄が下がっている」という説である。

しかし、これはすでに解消してしまった問題ではないだろうか。たとえば、日本人の「貯蓄」のかなりを占める「金融資産」は順調に拡大しているし、また、一時は下落して憂慮されていた「貯蓄率」も復活している。したがって、これですべてだとは言わないまでも、構造的な問題としてはそれほど不利な立場にあるとは思えない。

消費が伸びない理由としてはもうひとつ考えられる。アナリストたちが繰り返し指摘している日本人の消費に対する心理である。この消費への意欲が低下しているので、企業も敢えてこの消費性向にさからうことはしなかったというのが、マーケッターたちなどを中心とする解釈だった。

前出のウォールストリート紙でコメントしている、JPモルガンのエコノミストは次のように指摘している。「日本のインフレーションは2023年になっても低いままだと思われる。しかし、最近の価格上昇の突き上げが消費者の心理を変えてしまい、これまで長い間親しんできた見方から離れ、インフレを予想するようになることについては、注意が必要だと思われる」。

これはひとつの「可能性」として述べているわけだが、しかし、ウクライナ戦争の長期化やアメリカの証券バブルの崩壊が大きくなれば、世界の資金の流れそのものが変わってしまう。そのなかで、これまで構造的にも心理的にもインフレに向かわないだろうとされてきた日本経済が、ある事件をきっかけに、かなりの速度で変化することは十分にありえるのではないだろうか。

しかし、ここでもうひとつ大きな問題が圧倒的な迫力で登場している。すでに世界は景気後退(リセッション)に向かっているということである。フィナンシャルタイムズ紙5月21日付は「世界経済はリセッションに向かっているのではないか」は、かなり長い記事だが、リードは「見通しはよくない。というのは、中国のコロナ感染爆発、アメリカの金利上昇、そしてヨーロッパの生活費危機が進んでいるからだ」となっていて、これにウクライナ戦争の長期化を加えれば、世界経済にとって4重苦のような状況が生じているということにつきる。

ざっと見ただけでも、世界のサプライチェーンを支えてきた中国経済はオミクロン対策に失敗して甚大な被害を生み出している。多くの先進国においてはインフレが急伸して生活危機が生じている。もちろん、これはウクライナ戦争が始まったことによる、エネルギー危機と穀物危機が原因だ。すでに穀物価格が急騰して途上国では暴動にはってしているところもある。世界の市場はリセッションに陥り、これがインフレと結びついてスタグフレーションとなっている(詳しく説明するよりは、この投稿に引用してある4つのグラフを見ていただいた方がよいだろう)。

「自然に考えて、リセッションのリスクが高まるなかで、世界経済にとって良いニュースがあるとすれば、ロシアがウクライナから引き揚げること、そして中国のゼロ・コロナ政策が終わりになることである。しかし、こうしたニュースは経済担当相や公務員の能力の範囲内というわけではない。せいぜい彼らは、直面する困難な状況に対して、対応策をほんの少し調整するだけのことだろう」

これは日本経済においても言えるだろう。これから始まるインフレ基調への移行は、これまでは経済政策の最大のテーマであるかのように言われてきた。しかし、それは自国の努力によってではなく、海外に起こった戦争や非合理的な感染症対策から生じている。そして歴史的にみて、インフレが起こるときには、そのインフレを引き起こしている巨大な出来事が、実は、すでに進行していることが多かった。もちろん、今回も同じことだ。価格水準は輸入品が高騰していることからコスト・プッシュで上昇する。これはウクライナ戦争が続く限り不可避である。そして、GDPは世界の景気後退の圧力で上昇できない。これも日本の力だけではどうにもならない。したがってそれは、スタグフレーションへの道に通じている。

かつての経済学上の「革新」とか「革命」は、例外なくそうした根本的な状況変化への対策だった。単なる概念の再定義や、パズル解きのような頭の中だけの操作や、自分の説に都合のよい仮説の入れ替えではなかった。今回の大きな変化への経済政策上の「刷新」や「再構築」は、いま目の前に起こっている、幾つもの現実の挑戦に対する具体的な応答でなければ役に立たない。

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