新型コロナの第2波に備える(4)ロシア製ワクチンはスパイ行為の賜物?

8月11日、ロシアのプーチン大統領は、国立研究所が開発した新型コロナ・ウイルスのワクチンを保健省が承認したと発表した。しかも、9月からは実地に接種するというので、世界中から驚きと懸念の声があがった。このワクチンは必要な治験のプロセスを踏んでおらず、あまりにも危険だというのがその理由だった。

このとき、プーチンは自分の娘に接種したが異常は見られないなどと語ったが、まるでジェンナーの我が子への天然痘接種のようなエピソードも、あまりの性急さに驚く人たちを納得させることはできなかった。このワクチンの名前は「スプートニクV」。ソ連が打ち上げた世界初の人工衛星の名前から取ったことからも分かるように、衰えた自身の人気回復のため、コロナ・ワクチン戦争で後れを取らないようにする意図は見え見えだった。

スプートニク1号が1957年に世界初の人工衛星となったとき、焦ったのはアメリカだった。社会主義の「祖国」ソ連が、資本主義の「権化」アメリカに先んじて人工衛星を成功させたとなれば、政治的に大きな痛手を被る。アメリカ政府はただちに軍事費を積み増しするだけでなく、あたふたと科学少年を育成するために理科教育に力を入れ始める。これが「スプートニク・ショック」といわれる事件である。

今度も新しいスプートニク・ショックをもたらしたが、それはどこかに軽さをともなっている。ロシアはいまや超大国ではないし、世界革命を企ててもいない。それにしても危険な試みではないかというのが、ワクチンの専門家だけでなく、WHOのような機関からの反応であり、娘に接種したというのが本当であれば、それは非人道的な試みではないかとの批判も起こった。しかし、この電撃的発表には、前触れがあった。

実は、7月16日、米ニューヨーク・タイムズ紙は「ロシアはワクチンのデータを盗んでいると、西側諸国は指摘している」との記事を掲載。そこでは、アメリカ国家安全保障局が2016年ころから、ロシア系のハッカー集団が大学や企業からワクチンのデータを盗み続けていると指摘していると述べていた。このハッカー集団も特定されており、APT29あるいはコージー・ベアと呼ばれるグループであると当局は考えているというのである。

こうなってくると、飛び交う言葉からだけ見れば、事態はまるで冷戦期の様相をおびてくるわけで、第二次世界大戦後の原爆をめぐってのスパイ合戦を思い出す人もいるだろう。1945年に広島、長崎に原爆を投下したアメリカは、しばらくの間、世界で唯一の原爆保有国であった。ところが、予想に反して1949年には早くもソ連が実験を成功させる。

ソ連はもちろん独自開発であることを誇ったが、この間、ソ連のスパイ網はアメリカの原爆データを盗んでソ連に送り続けていた。たとえば、当時、ハーバード大学を18歳で卒業した天才物理学者セオドア・ホールは、原爆保有国が1つであるのは世界平和のためによくないとの「自分の信念」から、ソ連側にスパイを通じてデータを流し続けていたという。こうした「協力者」を得て、ソ連は予想以上のスピードで世界2番目の核保有国となった。

今回のスパイ行為についても、ニューヨーク・タイムズは、そのターゲットはオックスフォード大学とアストラゼネカが開発中のワクチンだったと報じた。いうまでもなく、このワクチンこそ他のワクチン開発に先駆けて治験の最終段階に入ったものだった。

ところが、ニューヨーク・タイムズのスクープが出た翌日の8月17日、ロシア政府系の投資基金を率いるキリル・ドミトリエフが、アストラゼネカ社と新型コロナ・ウイルスのワクチン製造をめぐって、すでに契約をしていると発表したので、世界は再び驚くことになる。ドミトリエフがこの時、サイバー攻撃によるワクチン・データ盗難を否定したことはいうまでもない。すでに契約しているのだから、盗む必要なんかないというわけである。

このドミトリエフの発表以降、ハッカー集団を通じてのロシアによるワクチン・データ窃取という話は、話題の中心からは去って、むしろ、ロシア製のワクチンの安全性に話が移行してしまった感がある。とはいえ、いまのロシアの振る舞いを考えれば、とても疑惑が消えたとはいえないし、ワクチン開発競争の現実を考えればスパイが活躍して何の不思議もない。いや、アメリカだって1990年に冷戦が終結した後、いまや最大の脅威は日本だというので、CIAが日本企業の情報をスパイしていたことは、当事者がアメリカ議会で証言した、まぎれもない事実である。

日本のウイルス専門家のなかには、自分たちのコロナ・ワクチン開発は、あくまで科学としての営みであり、そんなキナ臭いものではないという人がいる。しかし、こうした現実をほんのすこしだけでも垣間見れば、新型コロナ・ウイルスのワクチン開発は、それぞれの国の戦略や威信と深く関わり、とても政治とは無関係に進展しているとは思えない。

ただし、冷戦期の陰湿でシリアスなスパイ合戦と比べるとどこか妙な軽さがあって、『007』のショーン・コネリーというよりは、『Mrビーン』のローワン・アトキンソンのほうが似合うような感じもしないではない。

しかし、その暗さと重さはやはり、「日本人にはすでにコロナへの免疫がある」とか、「ソーシャル・ディスタンスなんかいらない」と発言する評論家たちが跋扈する、いまの日本のお気楽なコロナ状況からは隔絶している。それというのも、現実に大量の人間が死んでいく世界の深刻な状況が背景にあるからだ。

その意味では、プーチン大統領は、ロシアの新型ワクチンの名前は「スプートニク」という控えめなオマケみたいな名称より、「ジョー1」あるいは「RDS1」つまり、最初のソ連製の原爆の綽名か正式名称でも付けたほうが、よかったのかもしれない。

前出のニューヨーク・タイムズ紙は、8月11日付にも「ロシアは完全なテストを経ないでコロナ・ワクチンを承認」との記事を掲載している。ここでは、ロシアの性急な承認が危険なことであることを再び指摘し、ハッカーによるワクチン研究の窃取を蒸し返しつつ、もしこのまま成功するようなことがあれば、ロシアのコロナ・ワクチン戦略が優位に立つ可能性も示唆している。

「もし成功すれば、このワクチンはロシアにとって地政学的な恩恵をもたらすかもしれない。それはかつてソ連が冷戦期に、大量の安いワクチンを途上国に輸出したことを思い出させる。ロシアはすでに20カ国から10億回分のワクチンの注文を受けており、ブラジル、インド、韓国、サウジアラビア、キューバでワクチンを製造する計画があるという」

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