フク兄さんとの哲学対話(29)ベンサム②功利主義の「功利」とは何か

しばらくぶりに、対話をするためフク兄さんが、わたしの家にやってきた。最近は、フク兄さんの奇妙な家にこちらから出向いていたのだが、どういう風の吹き回しか、こちらに来てくれるというのだ。そそくさと、準備をして待ち構えた。例によって( )内は、わたしの独白。

フク兄さん おお、元気だったかのう? コロナもいまは勢いを失っておるから、あんまし心配もしていないが、お前はあわて者だから、マスクをかけないで歩き回る危険もあるからのう。(さすがに、そんなことはしないよな)

わたし わざわざ出向いてもらって、申し訳ないなあ。でも、いちおう、準備はしてあるからね。

フク兄さん おお、今回はベンサムさんの2回目だったのう。前回はベンサムさんの生涯の話をしたが、どうも分からないのが、巨大な監視監獄を設計したり、死後は自分をミイラにしてくれと遺言を残していることじゃな。そのどこが功利主義なんじゃろ。

わたし 今回はまさに、その謎を解いてみようということなんだ。つまり、彼が主張した功利主義の「功利」とはいったい何かということだね。いっぱんに功利主義的だといえば、損得勘定ばかりしているという、批判の意味で使われていることが多いけれど、ベンサムが述べた功利というのはそれだけじゃないんだね。

フク兄さん ふ~ん、功利的じゃなくても功利主義なんだというわけかの。(お、なかなかしゃれたことをいうな。ん?)

わたし そもそも、ベンサムが功利主義を唱えたのは、少しかたぐるしく言えば、彼が生きた18世紀から19世紀にかけての英国社会が、多くの矛盾を露呈してきたのにたいし、その対策を考えようとしたことから始まっているんだね。

フク兄さん ほほ~。

わたし なかでも罪人を収容している監獄の待遇はひどかった。それと関係しているけど、裁判によって有罪とする従来からの法律が、ベンサムの目からは欠陥が多かった。そもそも道徳というのは何を基準にすべきなのかという問題が、あいまいになっていると彼は考えたんだね。そこで書いたのが『道徳および立法の諸原理序説』だった。これはいまも「主著」とされている。

フク兄さん なるほど。「お前が悪い」というには、そもそも「何が悪い」のか基準がないといえないからのう。その点、わしのカミサンは、わしが酒を飲んでも、仕事を少し控えても(ズルけても、だろ)非難する。しかし、酒を飲むことも仕事を控えることも、日本では犯罪ではないからのう。

わたし え~と、そこでベンサムが考えたのが「功利性の原理」というわけなんだね。彼は当時の英国の裁判で用いられている「コモンロー」という法律は、これまでの判決の膨大な前例であって体系をなしていない。そのため判決も矛盾だらけだと彼は思った。そこで何らかの原理で整合性を持たせなくてはならないが、当時、道徳を考える有力な原理は2つ。第1が宗教的な背景をもつ「禁欲の原理」、第2がヒュームやアダム・スミスが論じていた「共感の原理」。しかし、ベンサムは「禁欲の原理」はしばしば人間の幸福を縮小させてしまうので間違いであり、「共感の原理」は主観的あるいは感情的なものを基礎にしているので、基準にはなりえないと否定しているんだ。

フク兄さん ほっほ、話が佳境に入ってきたが、ここらで、さっきお前が言っていた「準備していたもの」を出すのが幸福を増進するような気がするぞ。(え、準備したのはベンサムの話だけどなあ。ま、いいか)

わたし あ、栓を開けてしまっているんだけど、これではどうかな?

フク兄さん おお、「八海山」ではないか。もちろん、十分、十分じゃよ。どれどれ、(さっそく、栓を開けて匂いをかいでいるよ)……おお、開けてから3日とたっていないぞよ、この香りならば。さ、さあ、注いでおくれ。(わあ、また丼を出した。どこに隠していたんだ!)、おとととと、ぐび、ぐび、ぐび、ぐび、ぐび、……ぷふぁ~! (あ、目をつぶってる)やっぱりうまいのう。新潟の銘酒の名に恥じないどころか、高くそびえる日本酒の名峰といってよい。お前もどうじゃ(こちらはふつうのぐい飲みだけど)

わたし あ、おとととと、……ぐび、ぐび、ぐび……おお、この爽やかな風のような味わいは、いつ飲んでもいいなああ。さて、ベンサムに話を戻すけれど、彼は2つのことを強く自覚していたんだ。ひとつは、自分の主張は古代哲学のエピクロス主義の復活であること、もうひとつが、ヒュームが主張した共感の原理とは徹底的に敵対しているということだったんだ。

フク兄さん エピクロス主義の復活? ということは快楽主義ということになるが……ほっほっほ。(なんか勘違いしているな)

わたし 今年の正月に対話で取り上げたけれど、エピクロスの快楽主義というのは、酒池肉林の贅沢をするのではなく、苦痛を遠ざけるという意味で「快楽の追求」だったわけだけれど、その点はベンサムも同じなんだね。ただし、ベンサムの功利主義では「功利」の比較や計算ができるという立場に立っている。この延長線上でヒュームやスミスが採用した、人間の感情が道徳を作り出し、感情のなかでも他人を思いやることができる「共感」が、とくに社会維持において重要だというのは間違いだというんだ。彼は、感情は比較も計算もできないのだから、原理とはなりえないと繰り返し批判している。

フク兄さん お前が解説すると、何でもつまらない話になってしまうのう~。この歳じゃから肉林はともかく、酒池のほうは何となく期待したのにのう。

わたし 功利性の原理についてはベンサムの言葉を引用しておくね。「功利性の原理とは、その利益が問題になっている人びとの幸福を、増大させるように見えるか、それとも減少させるように見えるかの傾向によって、すべての行為を是認あるいは否認する原理を意味する」というわけだ。

フク兄さん ………。(あれ、目をとじている。寝ているのかな)

わたし 前回、紹介したようにベンサムは「自然は人類を苦痛と快楽という、2人の主権者のもとにおいてきた」というのが大前提で、そうした2つのファクターの支配する「帝国」を認めたうえで、快楽をできるだけ増やし、苦痛をできるだけ減らすのが功利主義だということになる。(あれ、また寝ているな)え~と、あの~。

フク兄さん あ、起きている、聞いているぞよ……。

わたし ただし、快楽の量がひとりの人間にとって多くなっても、ほかの多数の人の快楽の量が減ってしまっては、全体で見た場合には減ってしまう。そういう政策や法律は、功利性の原理を満たしていないことになるんだね。それが「最大多数の最大幸福」なんだ。その意味で、功利性は比較衡量の対象となりうるというわけ。

フク兄さん ………。(あ、また目がとじた)

わたし こうした功利性の原理は、罪と罰の比較にも適用される。犯罪を犯した人間にたいして、罰を与える場合にも、社会に対する害とそれに値する刑を考量できると、ベンサムは考えていた。

フク兄さん あ、わかったあ!(わ、びっくりした。急に目を覚ますなよ)罪と罰がプラスとマイナスでゼロにするということじゃな。

わたし バランスをとると言う意味なら当たっているけど、ベンサムは罰のほうに再発防止のための上乗せを考えていた。プレミアムを付けるんだね。犯す罪に対して、その上乗せ分が損ならば、再び同じ犯罪に走る人間は減るだろうというわけだ。この原理は、たとえば、権利と義務にも適用されている。日本ではひところ、権利を主張するなら義務も果たせという考え方が、英国の常識なんだと書く人がいたけれど、これは実はベンサムに始まる功利主義から生まれた考え方なんだ。ヨーロッパとかアメリカの天賦人権説のように、権利というものが神によって与えられたと考える説とは、まったく発想が違っている。神が権利を与えてくれたのなら、義務を果たすのは神に対してで、この世の誰かに返す必要はないことになる。

フク兄さん ………。(あ、こんどは完全に寝たな。無理ないかもなあ)

わたし ちょっとしゃべりすぎたかな。でも、ベンサムという哲学者は、人気はないけれど、現代に対する影響はきわめて大きいんだね。2回で済ませようと思っていたけど、やっぱり、もう1回だけ取り上げたいな。フク兄さんがいっていた、パノプティコンという監視監獄や、自分をミイラにした話も、なぜそれが功利主義といえるのか、さらに思想史にあたえた影響についても、次回、考えてみたい。

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