フク兄さんとの哲学対話(40)シェリング中編:ヘーゲルとの共同戦線と彼との決裂
また間があいてしまったけれど、シェリングについての対話を続けるために、フク兄さんのおうちを訪問した。不機嫌かと思ったら意外と機嫌がよく、ほっとした。もちろん、持参の紙袋を目立つように、手前に下げていったおかげかと思うけれど。いつものように( )内はわたしの心のつぶやき。
フク兄さん おお、ひさしぶりだな。今年はもう会えないかと思っとったぞ。いまや動乱の時代だから、一日一日を大切にせんとなあ。(なんか含みがあるな)
わたし いや~、今年も世界は荒れ模様で、あれこれ投稿しているうちに、この年も終わりだね。来年になっても、シェリングは逃げないけれど、やっぱりケリをつけておいたほうがいいものね。
フク兄さん 今回はシェリーさんの続きだったのう(シェリングだよ。あ、目が紙袋をみている)前回はシェリーさんの神と悪魔のお話だったが、まだ、人生と思想については、話していなかったのう。
わたし え~と、シェリングだけど、前回も厳密にいえば、神が創った世界に、なぜ悪が存在するのか、だけれどね。今回はまず人生について見てみて、それから彼の哲学の全体について話し合ってみたいんだ。シェリングは1775年にヴェルテンベルクで生まれている。お父さんは聖職者、お母さんは聖職者の娘で、聖職者一族なんだけど、幼い時から優秀で、典型的な早熟の天才だった。
フク兄さん ああ、またしても天才君なのじゃな。
わたし でも、この天才君はちょっと情熱が過多なので、人生も波乱含みになるんだ。まず、十五歳でチュービンゲン大学の神学学校(神学部)に入るんだけれど、寮で同じ部屋になったのが、五歳年上のヘルダーリンとヘーゲルだった。未来のロマン主義の大詩人と弁証法で有名な大物哲学者なんだね。でも、最も若いシェリングがいちばん才気ばしっていたらしい。
フク兄さん いやな奴じゃなあ。若いころのわしを思い出してしまうのう(え?)。
わたし それで、十八歳のときには前回取り上げた『悪の起源について』を書いて周囲をびっくりさせる。すごい勢いで勉強してギリシャ語やヘブライ語やラテン語をマスターしていたんだけれど、そのうちカント哲学を学んで、当時、注目されていたフィヒテ哲学に入れ込んで、一時はほとんどフィヒテの祖述者(師の言葉を解説するだけ)になってしまう。
フク兄さん それではつまらんのう。
わたし 大丈夫、シェリングはそれでは終わらなかった。実は、祖述をしているように見えても、その根底の部分では、根本的に発想がちがっていたといわれる。それは、シェリングが自然科学の知識が足りないことに気が付いて、自然科学を勉強することによって顕著になるんだ。フィヒテの「自我哲学」は「イッヒ(Ich)自我」が主観を拡大していって、客観つまり自然をも飲み込んでしまうような思想だった。しかし、シェリングはそれには不満で、主観が客観を凌駕するように見えても、その根底には絶対的自我が存在していると考えるようになるんだ。
フク兄さん ちょっと待った! ここらで、その紙袋を開けてくれんかのう(あ、きたきた)。……嫁が持たせてくれたんじゃろ。おお、米沢の東光ではないか。山形県米沢の銘酒じゃ。このお酒は雪解けの水で造るのじゃよ。さあ、注いでおくれ(わ、また巨大などんぶり)お、お、お、ぐび、ぐび、ぐび、ぐび、おおお、戦国時代からといわれるお酒の深みが感じられる。と、同時に、洗練されているが腰がすわっておる。おまえには過ぎた女房じゃのう。………さあ、おまえもこれで飲め(なんだ、小さなぐい飲み)。
わたし おっとととと、ぐび、ぐび、ぐび……これはいい。(うちのかあちゃん、フク兄さんに気を使いすぎだよな)でも、旨いな。……さて、こうした哲学者としての出発をするなかで、シェリングはドイツ内で評判が高くなり、文豪ゲーテの推挙で1798年にはイエナ大学に招かれる。まだ23歳だったんだ。しかも、この天才青年はロマン主義の文学者たちにも注目され、その総帥というべきヴィルヘルム・シュレーゲルのサロンに出入りするようになり、その妻カロリーネと恋に落ちてしまうのだね。
フク兄さん ほんとうに絵にかいたような天才君の恋愛ぶりじゃのう。わしも昔を思い出して胸が痛くなるぞよ(やれ、やれ)。
わたし 最初、カロリーネは娘のアウグステと付き合うように仕向けるが、そのアウグステが急死してしまう。悲嘆にくれるシェリングを慰めているうち、それが愛情に変わって、カロリーネはシュレーゲルと離婚してシェリングと結婚してしまうんだね。カロリーネは十二歳年上だった。この時期、寮でいっしょだったヘーゲルもイエナ大学で給料なしの私講師となり、ふたりは『哲学批判雑誌』を創刊して共同戦線をはるようになる。というより、ヘーゲルがシェリングの哲学をサポートしたといったほうが正しいだろう。
フク兄さん ふむ、ふむ。
わたし シェリングの1799年の『自然哲学の体系』や翌年の『先験的哲学の体系』は、そのころの成果といわれる。ここでいう自然哲学というのは自然科学とは違って、自然をどう位置付けるかを論じているものなんだね。いうまでもなく、主観と客観の両方の根底にあるのは絶対的自我があるという説で「同一性の哲学」と呼ばれた。もうフィヒテからはますます遠ざかっているんだね。特に近年になって注目されるようになった『先験的哲学の体系』では、主観でしかない自意識が客観である自然と対峙することで、しだいに成長していくさまを描いている。「超越論的哲学は、自我が哲学にとって客観になっている仕方で、おのれにとって客観になるとき完結する」と述べている。これはヘーゲルをすこしかじった人なら、「それはヘーゲルの『精神現象学』じゃないか」と思うかもしれない。
フク兄さん ………。(あれ、目がとろんとしてきたぞ)
わたし ヘーゲルの場合にも、精神が「私的意見(マイヌンク)」から始まって成長してゆき、最後は絶対精神にまで到達するというわけだからね。しかし、ふたりの共同戦線はここまでだった。シェリングはイエナ大学から新設のヴュルツブルク大学に移り、それとともに雑誌のほうも終わってしまう。シェリングの社会的名声は高くなり1807年に神聖ローマ帝国皇帝の命名日にちなんだ講演を行ったときがピークだったといわれる。
フク兄さん つまらんのう~。(わ、びっくりした。急に起きるなよ)
わたし な、なんだ、寝てしまったわけじゃないのか。
フク兄さん わしはちゃんと聞いておるぞ。シェリーさんがヘーゲルといっしょに雑誌をやっていたが、それが終わりになるが、皇帝にも認められてめでたしめでたしという話じゃろう。つまらんの~。
わたし それが、そうじゃなかったんだよ。まさに1807年、ヘーゲルが『精神現象学』を刊行し、その序論のなかで主観も客観も結局のところ絶対的自我でいっしょになるんなら、「闇のなかでは牛はみんな黒い」と言っているようなもので、なんの意味もないじゃないかとシェリングの同一性哲学を批判するんだ。これでシェリングはショックを受けるだけでなく、かなり落ち込む。批判があたっているからだね。しかも、1809年には最愛の妻カロリーネが死んでしまう。
フク兄さん おお、シェリーさんの人生もまた、動乱のなかでかき乱されるわけか(あ、目がぱっちりしてしまったぞ)。
わたし そうなんだ。がっくりしているときに、追い打ちをかけるように、哲学の世界でもシェリングの名声が陰りを見せるようになってくる。そんなころ、シェリングは心を癒すため温泉に行ったんだが、散歩をしていると、なんと、ヘーゲルが向こうからやってくるではないか。ヘーゲルは「お~、フリードリッヒ、元気かあ」と明るく声をかけたらしい。元気なわけがないじゃないか、と思ったにちがいないよね。しかも、『精神現象学』での手ひどい批判のことなど、まったく気にしていないような様子だったので、シェリングは愕然としたという。すでにヘーゲルは『精神現象学』の成功もあって、意気軒高、いよいよヘーゲルの時代が始まろうとしていた。
フク兄さん 時代の流れ、はやりすたりというのは、恐ろしいものじゃのう。しかし、……このまま元天才少年のシェリーは、引っ込むわけではないじゃろうな。(シェリーじゃなくて、シェリングだってば)
わたし そうなんだ。シェリーはこのときも、ヘーゲルの批判を反芻していて、それを克服しようと必死だった。普通の人間からすれば、ちょっとの違いでしかないような観念の世界の出来事だが、哲学者たちの闘いは熾烈なんだよね。今回はちょっと長くなったから、それ以降のシェリングの巻き返しについては、次回でやることにしたいんだけど。
フク兄さん ほっほっほ、もちろんいいとも。東光が旨かったので、次も東光でもいいぞよ。(なんだ、フク兄さんはお酒のことしか考えてないんじゃないか)
●フク兄さんシリーズ フク兄さんとの哲学対話 ☚こちらをどうぞ