AIを超える人間の誠意;『ブラックボックス 音声分析捜査』の最後に残る希望とは
『ブラックボックス 音声分析捜査』(2021・ヤン・ゴズラン監督)
映画評論家・内海陽子
作り話に決まっているホラーの場合でも「実話の映画化」と銘打たれて喧伝されることがある。そう聞くとなにやら重要性が増したような気になるが、これは公開する側の心理作戦のようなものだ。作り話でも実話でも、映画としての重要性は出来上がった物語の強さで測られるべきだろう。『ブラックボックス 音声分析捜査』は航空機事故をめぐる実話の映画化ではなく、今後、起こり得る最悪の事態のひとつを予測し、警鐘を鳴らすエンターテインメントだ。物語の組み立ては緻密で説得力があり、第一級の緊張感に満ちている。
主人公マチュー(ピエール・ニネ)はフランス民間航空事故調査局(BEA)の音声分析官。いわゆる地獄耳の持ち主だが、かなり粘着質の真相究明癖があって周囲に煙たがれている。2020年11月、新型の「アトリアン800型機」がアルプスに墜落、調査局はブラックボックス回収に向かうが、マチューはその任から外された。上司ポラック(オリヴィエ・ラブルダン)との対立が原因だとわかるが、音声分析という仕事が生きがいの彼は意気消沈する。しかしポラックが消息不明になり、代わって分析を引き受けたマチューは「アラーは偉大なり」という発言を聴き取る。乗客にイスラム過激派の男がいたとわかり、事故はテロによるものと発表された。
その後、遺族のひとりから妻の留守番電話の録音があると連絡が入り、調べるとブラックボックスの音声と3分間のズレがある。つじつまが合わないと知ったマチューは、ボイスレコーダーに疑問を抱くが、同僚は「また空耳だ」と陰口をたたいて薄笑いするばかり。果たして事故は本当にテロによるものだったのか、ひょっとして技術トラブルではなかったのか。マチューは真相究明に没頭していく。
とはいってもマチューは意欲満々の正義漢というわけではない。眼が悪くてパイロットになれなかったことにコンプレックスを持つ男で、人付き合いも苦手だ。墜落事故で300人以上の人が亡くなったことの重みを知る一方で、納得のいかない音声をそのままにしておけないからこそ真相究明をやめない。当然、孤立していく。それがサスペンスを奏でる。新型機の認証機関にいる妻ノエミ(ルー・ドゥ・ラージュ)がアトリアン社に引き抜かれたのも、セキュリティー会社を起業して成功し、アトリアン社と契約した友人グザヴィエ(セバスチャン・プドルース)が妻にすり寄るのも気に入らないが、口に出して言うことはできない。
わかりやすく衝撃的なシーンがある。警察による詳細な捜査の模様は描かれないが、乗客名簿を入手し、広い工場内に再現された事故機の座席図に立ったマチューが、イスラム過激派とされる男の座席から操縦室に入ることはできなかった、と悟るシーンだ。音声分析官の冷静な想像が正しいこともあるが、それが思い込みに過ぎないこともある。テロリストとして犯人に仕立てられた男性の名誉のためにも、気づいたことは立証しなければならない。ここでマチューは分析官として真の使命感を覚える。
「音声データをいじりすぎると、無意識に捏造するおそれがある」。これは開巻間もなくポラックがマチューに語る、音声分析官へのいましめの言葉だが、後半になると、これがポラックのねじれた告白だったように思い出される。すべての謎を知るのはポラックしかいないと確信したマチューが、探偵さながらポラックのオフィスや住居に侵入し、地獄耳を頼りに真相に近づいて行くくだりは素晴らしくスマートだ。そして目当てのブラックボックスは思いもよらぬところに慎重に隠されているのだが、それは見てのお楽しみである。
この映画のもう一方の主人公はAIそのものだが、人間が作ったAIには当然ながら欠陥があり、それを探り出し、改善するにはきわめて人間らしい思考が不可欠なのである。音声分析の天才と呼ばれながら、マチューがコンプレックスから逃れられなかったのは、分析における人間らしさの不足によるものではなかっただろうか。この航空機事故の解明を通して彼は自己の人間らしさを磨き上げ、AIをめぐる人間世界の醜悪な犯罪をあぶり出した。幸福な結末とは言えないが、この映画の最後に残るのは純粋な希望である。40代の俊英、ヤン・ゴズラン監督の力のこもった演出を堪能できる。
◎2022年1月21日より公開
内海陽子プロフィール
1950年、東京都台東区生まれ。都立白鷗高校卒業後、三菱石油、百貨店松屋で事務職に従事。休みの日はほぼすべて映画鑑賞に費やす年月を経て、映画雑誌「キネマ旬報」に声をかけられ、1977年、「ニッポン個性派時代」というインタビューページのライターのひとりとしてスタート。この連載は同誌の読者賞を受賞し、「シネマ個性派ランド」(共著)として刊行された。1978年ころから、映画評論家として仕事を始めて現在に至る。(著者の近著はこちら)
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