孤独・情熱そして生きる意欲;人間の深みを描く『ダンサー イン Paris』
『ダンサー イン Paris』(2022・セドリック・クラピッシュ監督)
映画評論家・内海陽子
フランス人バレエダンサーのすらりと伸びた美しい肢体が映し出されると、一瞬で気圧される。「パリ・オペラ座」の舞台で重要な役を演じるエリーズ(マリオン・バルボー)は特に際立っており、開幕前、恋人と思しきダンサーと軽くキスなどするものだから、その恋愛もさぞかしスマートで順調なのだろうと思う。だが、その恋は舞台裏であっけなくこわれ、激しく動揺したエリーズは、晴れ舞台の演技に失敗し、足首を痛めてしまう。映画が始まってここまであっという間だ。たゆまぬ努力の末にたどり着いた場所から転落するのはまったく簡単だ。呆然とする。
いかなる恋のトラブルがあったかを事細かに説明しないのが、この映画のセドリック・クラピッシュ監督のユニークなところで、考えてみれば、こちらも不実な男の素性などに興味はない。チュチュを脱いだエリーズは、どこにでもいるような若い女性で、普段着が地味なうえ、意気消沈しているものだから、将来を嘱望されていたバレリーナには到底見えない。それでも、ビルのらせん階段やベランダで、痛めた右足首をかばいながら体を動かす姿には冴えた美しさがあり、いっそうあわれを誘う。彼女がこれからどうやって再生していくのかを描くドラマだということがわかり、そっと寄り添う。
エリーズの友人や家族関係が紹介された後、舞台はブルターニュに移る。ここからがおもしろい。友人のサブリナ(スエリア・ヤクーブ)の恋人ロイック(ピオ・マルマイ)は出張料理人で、エリーズはアルバイトとして二人に同行することになる。宿泊施設の女主人ジョジアーヌ(ミュリエル・ロバン)は、さまざまな芸術家に場所を提供しているが、特にダンサーを愛する。エリーズを見て「負傷者の館へようこそ」というあたり、彼女もまた負傷してダンサーの道を断念したのだろう。エリーズの傷心を包み込むような大きな瞳の笑顔に、観ているこちらの気持ちも上向きになる。
次に館にやって来たのはコンテンポラリーダンスの一団で、若者たちを率いるのは、有名な振付師のホフェッシュ・シェクター(本人)。「オペラ座」のエリーズをよく知っており、彼女をダンスの練習に誘う。尻込みしていたエリーズだが、若者たちの練習風景を見るうち、目つきが貪欲なものに変わっていく。本物のダンサーならではの、躍ることへの渇望があふれ出したことがわかる。こういう渇望に火が付いたら、傷ついた身体もおのずとついてくるだろう。そう思わせる展開に嘘が感じられない。「コンテンポラリーは地面をつかむ感じ、地面との関係がリアル」という説明があるが、エリーズの身体が地面をつかみながら回復していく様子にわくわくする。
新しい恋も芽生える。エリーズとパリの街で顔見知りになったメディ(メディ・パキ本人)がダンサーたちの中にいて、二人は優れたダンサー同士の嗅覚で惹かれ合う。今度は失敗しないだろう。なぜなら、メディはやさしく慎重にエリーズにアプローチするからだ。それはスマートであか抜けたものではなく、あえていうならダサい。フランス映画でも恋はダサいのか、とセドリック・クラピッシュ監督『猫が行方不明』(1996)で知ったことを思い出す。そういえば、サブリナとロイックの会話も、しばしば恋人同士とは思えない荒っぽい展開になるが、二人の相性はばつぐんだ。また、エリーズの理学療法士であるヤン(フランソワ・シヴィル)が、ひょっこり館にやってくる心理とその経過も見どころだ。
エリーズが、コンテンポラリーにおいても才能を開花させることになるのは当然の展開だろうが、興味深いのは、彼女の父で弁護士のアンリ(ドゥニ・ポダリデス)の反応だ。彼は映画の冒頭で娘が転倒した舞台を冷ややかに見ていたのに、コンテンポラリーで娘がソロで踊るシーンを見て涙ぐむのである。つまり、クラシックバレエではうかがい知れなかった、娘の孤独や情熱、生きる意欲といったものを深く理解する。彼は娘に対して冷ややかだったわけではなく、クラシックバレエを愛した亡き妻の思い出に浸っていて、娘への理解が及ばなかったのである。
「ホフェッシュの踊りには本物の精神性がある」と誰かが言う。クラシックバレエは見ていて非常に美しく、ダンサーが宙を舞う様子は夢のようだ。いっぽう、コンテンポラリーは観客に夢を与えるものではなく、人間の深みを感じさせるものなのだ。どちらがいいかということではなく、表現するものが違うということがよくわかる。思えば幼いころ、クラシックバレエのつもりで通った教室がモダンバレエを教えていたと知り、やめたことがある。あのまま続けていたら、やがてコンテンポラリーへ向かい、いくらか人間が磨かれていただろうか。
●2023年9月15日より公開
内海陽子プロフィール
1950年、東京都台東区生まれ。都立白鷗高校卒業後、三菱石油、百貨店松屋で事務職に従事。休みの日はほぼすべて映画鑑賞に費やす年月を経て、映画雑誌「キネマ旬報」に声をかけられ、1977年、「ニッポン個性派時代」というインタビューページのライターのひとりとしてスタート。この連載は同誌の読者賞を受賞し、「シネマ個性派ランド」(共著)として刊行された。1978年ころから、映画評論家として仕事を始めて現在に至る。(著者の近著はこちら)
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