『高野豆腐店の春』は男心のサスペンス;藤竜也は女たちを輝かせる
『高野豆腐店の春』(2023・三原光尋監督)
映画評論家・内海陽子
かつて藤竜也が農村を舞台にしたある映画に出演した際、ロケ地に向かう道すがら、何人もの農家の女性とすれ違って挨拶を交わした。ある日、ふと気づくと彼女たちがみな、化粧をするようになっていたそうだ。女心である。わたしが農家のおばちゃんでも化粧をしないわけにはいかなくなる。それくらい藤竜也は緊張感を誘うのだ。80代になっても現役として気を吐く俳優は『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』(2023・ダニアル・リフキ監督)のハリソン・フォードだけではない。いや、いまもアクション演技のできる俳優が、豆腐店の主人を演じることの方に旨味がある。
ところは広島県尾道市。朝、まだ暗いうちに起き、作業場で豆腐作りを始める高野豆腐店の辰雄(藤竜也)。しばらくして娘の春(麻生久美子)がやって来て丁寧にあいさつし、辰雄は短く答える。朝のピンと張りつめた空気の中で行われる豆腐作りが終われば、二人は出来立ての豆乳を飲み、その日の仕上がり具合を確かめる。毎日きちんと行われるこの作業は、いずれ行われなくなるだろう。年を重ねて体調が思わしくなくなった辰雄は、近隣の悪友たちにそそのかされ、娘の伴侶探しをすることになる。
タイトルにある“春”は、娘の名前とともに、辰雄自身に訪れる“春”をも意味している。彼が病院で知り合った中野ふみえ(中村久美)は心臓にペースメーカーを入れており、被爆者手帳を持っている。よい運に見放されたようなふみえの姿は、辰雄の亡き妻の人生を思い起こさせる。それでもふみえは明るく気丈で、カテーテル手術を勧められながら怖がっている辰雄をやさしくからかう。少し情けないが、朴訥で礼儀正しい辰雄にふみえは好意を持ち、二人の穏やかな交友が始まる。
娘の伴侶を自分で見定めたい辰雄は、悪友たちが持ち寄った候補者の中からイタリアンの店を持つシェフ(小林且弥)に白羽の矢を立てる。見た目も人柄も将来性も申し分なしと思えた彼だが、春は特段の興味を示さない。それどころか、彼女は辰雄が快く思っていない男を選んでいたということがわかる。このあたりのどたばた騒ぎは、悪友たちに扮する名バイプレーヤー陣の顔見世興行のようである。なくても困らないシーンだが、やはり、映画にはなくてはならないシーンなのだ。悪友たちはみな60歳そこそこで、辰雄とはだいぶ年の開きがあるが、辰雄はほとんど同年代というイメージで押し通すのがあっぱれだ。
辰雄の“春”に関して粋な役どころをこなすのは理髪店店主の女房(竹内都)である。彼女が「わたしは口が堅いから」と念を押しつつ辰雄の心情を聞き出し、それがあっという間に悪友たちの知るところとなる、という展開は定番というべき楽しさだ。その後、辰雄の優柔不断さに業を煮やした理髪店店主(徳井優)が、彼に食って掛かる。藤竜也と徳井優が口角泡を飛ばして怒鳴り合うさまはこれぞ友情の証、とでもいいたくなる上機嫌な場面であり、その後の幸福を約束する名場面となる。
これが名場面たり得るのは、ひとえに藤竜也の演技にたしなみとはにかみがあるからだ。辰雄はふみえに対する好意を“男女の愛情”と決めつけられるのを「気持ち悪い」と表現する。愛情がないわけがないが、そこによこしまなイメージが加わるのをひどく嫌う。この微妙な男心がこの映画のサスペンスであり、いい俳優にしかできない表現であり、本来、恋する男たちは、みな彼のように高潔なのである。それは春の恋の相手にも共通する高潔さであり、そのまま、映画の気品に繋がっている。
病弱でありながら、時代や人を恨まず、背筋を伸ばして生きているふみえにもその気品は託されている。彼女が街中の広場に置かれたピアノで、はにかみながら丁寧な演奏を披露するのは、幸せに向かって前進する意志と誇りを周囲にアピールしたいと思うからだろう。それができるのは、その真情をまるごと受け止める辰雄がそばにいればこそである。このとき、彼女を励ますように大きく頷きながら見守る辰雄は、人生という激戦を生き抜いて来た者のおおらかな包容力に満ちている。
思えば、娘の春を演じる麻生久美子も、ふみえを演じる中村久美も、硬質なタイプのいい女である。藤竜也はこういう女たちをみごとに引き立てる。彼が三原光尋監督と組んだ前作『しあわせのかおり』(2008)では中谷美紀が共演し、やはり、不運ながら気丈に生きる女を好演する。中国人の料理人を演じる藤竜也は、ここでも彼女の硬質な美を見守っている。意志ある女性を愛で、見守る守護天使のような役どころは、いまや藤竜也の重要な仕事のひとつになった。
●2023年8月18日より公開
内海陽子プロフィール
1950年、東京都台東区生まれ。都立白鷗高校卒業後、三菱石油、百貨店松屋で事務職に従事。休みの日はほぼすべて映画鑑賞に費やす年月を経て、映画雑誌「キネマ旬報」に声をかけられ、1977年、「ニッポン個性派時代」というインタビューページのライターのひとりとしてスタート。この連載は同誌の読者賞を受賞し、「シネマ個性派ランド」(共著)として刊行された。1978年ころから、映画評論家として仕事を始めて現在に至る。(著者の近著はこちら)
『愛がなんだ』:悲しみとおかしみを包み込む上質なコートのような仕上がり
『バースデー・ワンダーランド』:情感とスピード感に満ちた贅沢なひととき
『家族にサルーテ! イスキア島は大騒動』:けっして自分の生き方を諦めない大人たちを描きぬく
『エリカ38』:浅田美代子が醸し出す途方に暮れた少女のおもかげ
『ファイティング・ダディ 怒りの除雪車』:本作が断然お薦め! 頑固一徹闘うジジイ
『DANCE WITH ME ダンス ウィズ ミー』:正常モードから異常モードへの転換センスのよさ
『記憶にございません!』:笑いのお座敷列車 中井貴一の演技が素敵!
RBGがまだ世間知らずだったとき:ルース・B・ギンズバーグの闘い
『劇場版おっさんずラブ LOVE or DEAD』常に新鮮で的確な田中圭のリアクション
千葉雄大の孤軍奮闘にハラハラ;『スマホを落としただけなのに 囚われの殺人鬼』
成田凌から飛び出す得体のしれないもの;ヨコハマ映画祭・助演男優賞受賞に寄せて
情熱あふれる歌・踊り・群舞;『ヲタクに恋は難しい』の高畑充希になり切る
生きていると否応なく生じる隙間;『街の上で』若葉竜也の「素朴」さに注目!
ヒロインを再現出させる魔術;ゼルウィガーの『ジュディ 虹の彼方に』
オフビートの笑いが楽しい;『デッド・ドント・ダイ』のビル・マーレイを見よ
現代によみがえる四人姉妹;『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』
夜にたたずむ男の見果てぬ夢;『一度も撃ってません』の石橋蓮司に映画館で会おう
長澤まさみの艶姿を見よ!;『コンフィデンスマン JP プリンセス編』は快作中の快作
どことなく滑稽でどことなく怖い;『星の子』にみる芦田愛菜の包容力
挑戦をやめない家族;『ヒトラーに盗られたうさぎ』でリフレッシュ
おらおらでひとりいぐも;田中裕子の『おらおらでひとりいぐも』
内海陽子「誇り高き者の確執、愛憎」;佐野亨編『リドリー・スコット』に寄稿しました
小粋な女性のサッカー・チーム;『クイーンズ・オブ・フィールド』で愉快になれる
娑婆は我慢の連続、でも空は広い;西川美和監督の『すばらしき世界』は温かく冷たい
感情を自在に操ることのできる演技者・水川あさみ;ヨコハマ映画祭・主演女優賞受賞によせて
最高の「嘘っぱち!」物語;『騙し絵の牙』の大泉洋は期待通りの全開
チャーミングな老人映画;『カムバック・トゥ・ハリウッド‼』を見逃すな
「打倒! まとも」が新しい世界を運んでくる;『まともじゃないのは君も一緒』の成田凌を深読みする
役所広司の醸し出す「歴史」;『峠 最後のサムライ』のぬくもり
異様な細部がすばらしい『ベルヴィル・ランデブー』;おばあちゃんの闘争は続く!
恋ゆえに渡る危ない橋『ファイナル・プラン』;リーアム・ニーソンからの「夢のギフト」
王道を行く人情コメディ;やっぱり笑える『明日に向かって笑え!』
「君は世界を守れ、俺は君を守る」;初々しい『少年の君』のチョウ・ドンユイ
漫画家夫婦の不倫ゲームを楽しむ;黒木華と柄本佑の『先生、私の隣に座っていただけませんか?』
未来についての勇気の物語;『愛のくだらない』の藤原麻希がみせる推進力
ムロツヨシの「愚直」な演技力;『マイ・ダディ』の聖なる滑稽さ
ジェイソン・ステイサムの暗く鈍い輝き;『キャッシュトラック』の「悪役」が魅せる
底なし沼に足を踏み入れたヒロイン;『アンテベラム』の終わらない感情
早すぎる時間の中での成長;『オールド』にみるシャマラン監督の新境地
二人はともに優しい女房のよう;西島秀俊と内野聖陽の『劇場版 きのう何食べた?』
おどおどしつつも男の意気地が光る!;中谷美紀と田中圭の『総理の夫』
生き生きとした幸福のヒント;加賀まりこが母を演じる『梅切らぬバカ』
前進する者への確かなエール;リーアム・ニーソンの『マークスマン』
小さな人間にも偉大なことはできる;妻の仇討ち物語『ライダーズ・オブ・ジャスティス』
AIを超える人間の誠意;『ブラックボックス 音声分析捜査』の最後に残る希望とは
体全体で感じる音楽の喜び;『CODA あいのうた』の家族たち
胸がすく女殺し屋の戦闘シーン;『ガンパウダー・ミルクシェイク』から目を離すな!
臨床心理士が逆に心を解読される恐怖;『カウンセラー』がみせる短編映画の切れ味
深い思いやりをもって吸い付くように伴走する笠松則通の眼;ヨコハマ映画祭・撮影賞によせて
肩の凝らない、いいセーター;今泉力哉監督の『猫は逃げた』は恋のトラブルの高みの見物
隠し味が効いてる『ゴヤの名画と優しい泥棒』;実話の映画化はやっぱり喜劇が最高だ!
田中圭の『女子校生に殺されたい』;目当ての少女を見つけ出せ!
生きることはミステリアス;小林聡美の『ツユクサ』がもつ苦味とおかしみ
奇妙な悲しみをたたえる阿部サダヲが怖い;『死刑にいたる病』が残す余韻
「少女」を演じる宮本信子が温かい;『メタモルフォーゼの縁側』は生きて行く活力を伝える
鳥肌が立つほどの軽やかさと上品さ;中井貴一の『大河への道』は裏切らない
あの世への優雅なダンス;『スワンソング』の心地よい風に吹かれて
人生における美しい瞬間;『セイント・フランシス』の小さな体験
「イエス」で答え「アンド」で繋げる未来;『もうひとつのことば』の初々しい二人
永野芽郁のバンカラ女子がいい;『マイ・ブロークン・マリコ』の確かな手ごたえ
『ドライビング・バニー』は振り返らない:アンチヒーローの正義
正念場を迎えた4つのカップル;『もっと超越した所へ。』のいい加減で深刻な情熱
男がひとりで食べるフルーツパフェの味;『窓辺にて』の嫉妬とおかしみ
生きる上で幸福は花火のよう;『夜、鳥たちが啼く』の晴れやかな世界への出発
阿部サダヲの『アイ・アム まきもと』は温かい;死を通じて人と繋がる静かな高揚感
世界は美しさに満ちている;カンバーバッチの『ルイス・ウェイン 生涯愛した妻とネコ』
弱虫だから輝く『雑魚どもよ、大志を抱け!』;内海陽子が足立紳監督の魅力と「誕生秘話」を語る
悩んで悩んで悩みぬく竹野内豊と黒木華;『イチケイのカラス』は上質なエンターテインメント
永遠性を獲得した異形の少女;『エスター ファースト・キル』が暴く家族の狂気
『Winny』は人生のドラマ;東出昌大という俳優の復活をみる
リーアム・ニーソンの『MEMORY メモリー』:殺し屋とFBI捜査官の意外な連帯感が楽しい
手ごたえのある人生を勝ち取る;『ウィ・シェフ!』の深い味わい
『テノール! 人生はハーモニー』の愛と悲しみ;思う相手に心が届く瞬間
「ちきゅう」はどこまでも繋がっている;『せかいのおきく』にある強い向日性
『釜石ラーメン物語』はチャーミングでハッピー;闘い続ける姉妹が発散する活力
父と息子の対決を包み込むあたたかい風;『ふたりのマエストロ』の颯爽とした女たち
『高野豆腐店の春』は男心のサスペンス;藤竜也は女たちを輝かせる