老いた眼差しの向こう;『ぶあいそうな手紙』が開く夢
『ぶあいそうな手紙』(2019・アナ・ルイーザ・アゼヴェード監督)
映画評論家・内海陽子
ちょっと気を引くタイトルだがミステリーではなく、「拝啓」で始まるかた苦しい手紙のことだ。いまどき手紙が物語の中心に置かれ、スマホのメールのやりとりが出てこない映画は珍しく、大いに気骨を感じさせる。かつては気骨の人だったと思しき主人公のエルネスト(ホルヘ・ボラーニ)は78歳になり、元カメラマンだというのに目がわるくなり、スマホを持たないどころか、手紙を読むことさえできない。届いた手紙は生まれ故郷のウルグアイに住む親友の妻からのものなので、早く読みたいがなかなか思うようにいかない。開巻のじらし方がうまいので、誰もがエルネストに来た手紙をのぞき込みたくなる。
エルネストはウルグアイのモンテビデオ出身だが、ブラジルのポルトアレグレに移住して46年が過ぎた。妻は数年前に亡くなり、息子は一緒に住もうと言うが、愛着のあるアパートを去る気はない。ふとしたことで知り合った、元気いっぱいの娘・ビア(ガブリエラ・ポエステル)に頼んで手紙を読んでもらうと、そこには亡き親友の妻・ルシア(グロリア・デマシ)の親愛感あふれる言葉が並んでいた。親愛感以上のものを感じ取ったビアは、エルネストの返信の代筆を引き受ける際、「拝啓」で書き始めるのに反対し、彼をあおって親愛感に応える手紙に仕上げる。「ぶあいそうな手紙」ではなくなった。
黒髪のショートカットによく動く大きな目がチャーミングなビアは元女優だというが、宿無しで男運もよくない。しかし頭はよく、人の心の動きに敏感なので、エルネストは気に入った。家の中のものや金がいくらか消えても、問い詰めようとはせず、自分の好意だけを伝え、彼女の誠実さに働きかける。このエルネストの辛抱強い態度が次第にビアの“生活習慣”を正していく。体力を失った祖父と活発な孫娘のような関係だが、当然のようにほのかなエロティシズムも漂う。その様子を見たハウスキーパーの女性が邪推まじりに余計な発言をしてクビになるが、エルネストの怒りの中には痛いところを突かれたという思いもあるだろう。
それを裏付けるシーンがある。宿無しのビアのために、息子の部屋を使わせることにしたとたん、彼女が腐れ縁の男を連れこんだとわかる。これにはさすがのエルネストも憤激を抑えきれずに部屋を飛び出す。飛び出してはみたものの、階段に座り込んでいるところをアパートの住人に発見されて我に返り、自分の老いを思い知る。無礼な男のふるまいにも腹が立つが、ビアが自分を軽んじた行動をとったことがショックなのだ。そこにあるのは明らかに嫉妬である。その嫉妬は無力だとわかるからこそ痛手は大きい。
しかしこの映画はそういう激情を過剰に表現させはしない。どういう場面においても節度があり、それが心地よいリズムを生む。たとえば、エルネストを怒らせたビアは、その埋め合わせにと思ったか、彼の書斎の蔵書を表紙の色ごとに並べ替える。大事な書斎に勝手に入ったといったんはビアを咎めたものの、エルネストはお気に入りの本を取り出しやすくなって機嫌を直す。怒りをいたずらに長引かせたり、くどくど言い訳したりせずに、二人はさらに距離を縮める。心の動きと身体の動きが流れるようになめらかだ。
ほかにもある。何かとおせっかいを焼く気のいい隣人・ハビエル(ホルヘ・デリア)の異変を知って、エルネストが駆けつけると、彼自身ではなく、彼の妻が倒れたと知る。彼女が画面に大きく映されることはなく、エルネストとハビエルの間にある鏡にぼんやりとベッドに横たわる女性の姿が映る。わざわざその様子を確認しなくても事情はわかる。目をわるくしたことでエルネストの勘は鋭くなり、それゆえにふるまいが優雅になっているように感じられる。この映画に映し出されるものは、エルネストが対象に寄せる感情をおもんぱかって濃淡が設計されている。それが過剰さを抑え、やさしい節度を生むのである。
たたみかけるような素晴らしい終盤は、節度が生んだ奇跡とでもいうほかない。節度を保ち、長い時間をかけて醸成された感情が突如花開く、その美しさに圧倒される。夢のようだが夢ではない。いや、夢であってもいい。ここにあるのは至福への扉である。
◎7月18日より全国順次公開
内海陽子プロフィール
1950年、東京都台東区生まれ。都立白鷗高校卒業後、三菱石油、百貨店松屋で事務職に従事。休みの日はほぼすべて映画鑑賞に費やす年月を経て、映画雑誌「キネマ旬報」に声をかけられ、1977年、「ニッポン個性派時代」というインタビューページのライターのひとりとしてスタート。この連載は同誌の読者賞を受賞し、「シネマ個性派ランド」(共著)として刊行された。1978年ころから、映画評論家として仕事を始めて現在に至る。(著者の新刊が出ました)
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