「境目」を超え続けた人;大杉漣さんの現場
「境目」を超え続けた人;大杉漣さんの現場
映画評論家・内海陽子
俳優・大杉漣が亡くなってから2年が過ぎた。親交のあった人たちの証言や俳優論を掲載した『大杉漣 あるがままに』(文藝別冊)が5月19日に刊行された。本サイトに映画・ビデオ評を寄せていただいている映画評論家の内海陽子さんが、大杉漣の演技論について述べた「拒まない男・大杉漣」を寄稿しておられるので、さっそくインタビューをお願いした。
―― こんど刊行された『大杉連』に「拒まない男・大杉漣」を寄せておられますね。とても面白かったです。
ありがとうございます。大杉漣の出演作で、好きな作品を論じてほしいという依頼を受けまして、大杉漣が重要な役を演じている作品、『犬、走る DOG RACE』(崔洋一監督・1998)を軸にして、小品でも熱い思いを感じさせる作品を選びました。おそらく、大杉さん自身も、この『犬、走る』がかなり好きだったのではないかと思います。
―― この「拒まない男」のなかで、大杉さんが書いた『現場者 300の顔を持つ男』(マガジンハウス)の文章を引用されていますね。「ぼくは基本的に、自分と違う人格を演じるという発想はしていない。それよりは役と自分の境目をはずすという、やり方が好きなのだ。出発点も自分で、帰るところも自分って感覚だ」。
それが大杉さんの俳優としての思想だったと思います。ほかの作品でもそうですね。たとえば、今回はあえて触れなかった作品に『アベック モン マリ』(大谷健太郎監督・1999)があります。公開当時、私はベストワンに投票しましたが、今の時点で見直してみると、この作品の大杉さんは、私が思っている大杉漣さんからは遠のいてしまった感じがするんです。
―― いまイメージしている大杉漣とは違っているわけですか
演じている中崎という役は中年のグラフィック・デザイナーで、ちょっとおしゃれなおじさんという感じ。若い妻に翻弄されていて、とても面白いんですよ。でも、作品を見直してみると、大杉さんの役柄ではなかったのでは、という気持ちが生まれたんですね。中崎は洒落者で軽佻浮薄なところもあって、その点は大杉さんのなかにもあるのは確かなんですが、その後の大杉さんを見てきた私からすると、自分と中崎の間の「境目」のはずし方が浅いというか、やさしいというか、そんな印象が残りました(笑)。
―― 大杉さんが『アベック モン マリ』について書いた文章を読んでいたら、一週間かけてリハーサルをやることになって、その間、舞台の練習をしているみたいだったというのです。それは、「ぼくと中崎という男の間にある〈垣根〉のようなものが、取り払われていくような……そんな時間だった」と書いているんです。
なるほど、大杉さんが、役と自分との「垣根」や「境目」というものを意識した、最初のころの経験だったかもしれないですね。この作品の主人公・タモツ(小林宏史)は売れないカメラマンで、料理から裁縫まで何でもできるので妻にいいように使われている。中崎の妻との仲を誤解されて抗弁しようとしても、また押さえられる。それでも最後になんとか一矢報いるというドタバタ劇ですね。『じゃじゃ馬ならし』が下地にあると思うんですが、それを大谷監督が自分らしく軽快にやってみせた作品でした。大杉さんは、そのドタバタに巻き込まれていく、盛り立て役のおじさんで、私はそこが物足りなかったのかな。
―― 大杉さんの本のタイトルは『現場者』ですが、現場者という言葉で連想するのは、次々と環境で性格を変えていくカメレオンのような俳優ですね。しかし、そうじゃなくて、役柄ごとに「境目」とか「垣根」を取り去っていく営みが「現場」なのかなと思いました。
大杉さんが次々と賞を取ったとき、私と同業の映画評論家が、「大杉漣という役者は、あれだけ多くの役を演じながら、すこしも擦り切れない」と言ったんです。そして、「大杉漣は作品ごとに常に初々しい」と評した。これまでも何かにつけて、その人の名前を出して「大杉漣は作品ごとに常に初々しい」という言葉を紹介してきたのですが、私の発言だと誤解されることがあった(笑)。大杉さんもこの評を喜んでくれまして、大杉漣を表現するのに、これほど適切な言葉もないと思います。私はその言葉を引用するのではなく、同じことを何とか自分の言葉で言えないものか、と書いてみたのが今回の原稿なんです。
―― 俳優ではない人間でも、人との付き合いというのは「境目」や「垣根」を消してみたり取り払ってみたりすることが大切ですよね。
そうですね。ただし、いたずらに老練になったり、擦り切れたりしてはいけないわけです。老練といえば言葉はよいですが、まかり間違えば悪達者になってしまう。擦り切れないように初々しく人との付き合いができたら、それこそ素晴らしいですよね。大杉さんの場合には「初々しく」そして「擦り切れない」。おそらく、ベテランの役者さんの中には「この間やった役と、昔やったあの役を組み合わせれば、今度の役はできるな」と思って演じる人もいるのではないかと思う。でも、大杉さんはそれをやらなかった。だから「初々しい」ままでいたんじゃないでしょうか。そこがすばらしく頑固で、多くの役者さんのなかでも異質でしたね。その異質なところを見抜いた監督には慕われたのではないかと思います。
―― お話を伺っていて気が付いたのですが、内海さんが評価する男優さんとか女優さんというのは、いろいろな役柄をこなしながら、それでいて「境目」や「垣根」を超え続けるタイプの人が多いですね。この「空飛ぶ書斎」で書いていただいた、レネー・ゼルウィガーもそうだったでしょうし、若い役者さんについての評価も、そうした「基準」が働いている気がしますね。
たぶん、そういうタイプの役者さんに感化されてきたということです。やっぱり、いつも新しい役を演じて「初々しい」、言い換えれば「高をくくっていない」役者が素敵ですね。レネー・ゼルウィガーなどは、完全に役になりきっていると思うと、一瞬、彼女の〝素〟をのぞかせたりします(笑)。役柄ごとに組み立てなおす、そのときの「境目」あるいは「垣根」は常に違うはずなんです。そうした「境目」や「垣根」と取り組む役者さんが、私は好きなんだということですね。
―― 最後にうがかいたいのですが、内海さんですら、大杉さんが出演している作品で面白くないときもあるが、そこには共通している点があるとおっしゃっていました。それは「境目」とか「垣根」と関係がありそうですね。
そうなんです。大杉さんといえども、何だか乗っていないなあと感じた作品はあります。たとえば、タイトルは言いませんが、大杉さん演じる、盛りを過ぎた映画監督が故郷に帰ってきて、もんもんとしている作品。この映画監督が昔の友人と再会して、好意を寄せられ、彼女と二人で歩くシーンがあるのですが、大杉さんがほんとうに下手に見えた。それは、役と自分との間の「境目」を超えるための時間を与えられなかったのか、あるいは別のことでできなかったのかは分からないですが、大杉さんが、役の情緒を感じさせずに、そのまま歩いている(笑)。いわば〝素〟のままの大杉さんを見たような気がしたんです。そこには役の男性が存在しないように思えて、びっくりしたことがありました。
―― こんど大杉さんが出演した作品を見るときは、内海さんの言葉を思い出して、深く鑑賞してみたいと思います。ありがとうございました。
●内海陽子「拒まない男・大杉漣」『大杉漣 あるがままに』(文藝別冊)掲載
このエッセイは、大杉漣さんが出演した5本の映画作品を論じています。『犬、走る DOG RACE』(崔洋一監督・1998)、『不貞の季節』(廣木隆一監督・2000)、『エクステ』(園子温監督・2006)、『ネコナデ』(大森美香監督・2008)、『教誨師』(佐向大監督・2018)。最後の出演作品となった『教誨師』について書いた、文章のほんの一部をお読みください。
「一見穏やかに見えて、まことに厳しい地平に立っている人間を描くのが佐向大監督『教誨師』(2018)である。大杉漣は教誨師・佐伯に扮して、拘置所で6人の死刑囚と対話を続ける。主役だが、彼に求められているのは非常に責任の重い助演の演技である。……
誰をも拒まず受け入れる教誨師を演じるということは、どんな役柄も拒まず『彼と自分の境目をはずす』やり方で生きてきた大杉漣にとって、いっとき、行き着いた境地だったかもしれない。彼の遺作となったため、謎めいたエンディングに死の匂いを嗅いでしまうが、実際は続編が企画されていたそうで、佐伯という人物への愛着が感じ取れる」
◎ぜひ、『大杉漣 あるがままに』(文藝別冊)に掲載の内海陽子「拒まない男・大杉漣」の全文をお楽しみください。 ☞写真をクリック
(構成・サンイースト企画)
内海陽子プロフィール
1950年、東京都台東区生まれ。都立白鷗高校卒業後、三菱石油、百貨店松屋で事務職に従事。休みの日はほぼすべて映画鑑賞に費やす年月を経て、映画雑誌「キネマ旬報」に声をかけられ、1977年、「ニッポン個性派時代」というインタビューページのライターのひとりとしてスタート。この連載は同誌の読者賞を受賞し、「シネマ個性派ランド」(共著)として刊行された。1978年ころから、映画評論家として仕事を始めて現在に至る。(著者の新刊が出ました)
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