わたしはオオカミになった;『ペトルーニャに祝福を』の爽快さ
『ペトルーニャに祝福を』(2019・テオナ・ストゥルガル・ミテフスカ監督)
映画評論家・内海陽子
大学は出たけれど、能力を生かせる職業に就くことができないペトルーニャ(ゾリツァ・ヌシェヴァ)は引きこもり一歩手前のようで、寝具の中にまで食事を差し入れる母(ヴィオレタ・シャプコフスカ)のペットと化しているようでもある。現状にも将来にも希望を見出せない彼女がウェイトレスのバイトをしても、もっと適性の高い若い女性に奪われてしまうのだろう。その豊かな体躯がエネルギーのはけ口を必死に求めているようで、この映画は開巻から強い緊張感をはらんでいる。
舞台はかつてユーゴスラビアの一部であった北マケドニアの地方都市。ひとりの女性がふとしたはずみで起こしたトラブルが、伝統的と言えば聞こえはいいが、慣習が女性を排除してきた男社会を大きく揺さぶる。面接に失敗してあてどもなく街を行くペトルーニャが、半裸の男たちにつられて川に飛び込み、司祭が投げた幸運を呼ぶ十字架をつかんだら、それが掟破りだったのである。地位も名誉もある男たちによるリンチにも似た展開の中、憤懣ゆえに引くに引けなくなったペトルーニャの意地を通す闘いが続くことになる。
逮捕されたわけでもないのに警察署に拘留されたペトルーニャが弁護士を呼べば、この事件は一つのエピソードで終わってしまう。だが彼女にそういう考えはない。自分のしたことが過去に前例のないことだからいけないという理屈がわからないから、ひとりひとりと向き合っていくしかない。当初、警察側は軽く脅して彼女に非を認めさせようとするが、彼女は頑として拒否する。そうなると署長も意地になり、不当な恫喝が始まる。「めんどくせえなあ」とでも言いたげに記録をとっていた若い警官ダルコ(ステファン・ビシッチ)は、脅されてもひるまないペトルーニャに好意のまなざしを投げる。司祭ははじめに彼女が十字架の“勝者”であると認めたのに心変わりし、彼女にそっと暴言を吐くまでになる。
いつの時代の話かと思うが現代の話で、劇中、携帯電話で撮影された動画が話題になっているという会話があるが、その動画が大きく画面に映されることはない。そうやって、安易に大衆を味方につければ終わるという話ではないのだ。このネタはヒットする、と直感したリポーターのスラビツァ(ラビナ・ミテフスカ)は取材を続行しようとするが、相方の若いカメラマンは乗り気ではなく、ペトルーニャにも冷たくあしらわれる。スラビツァの「体制との闘いか、性差別への抵抗か、偶然か、反逆行為か」という勇ましい掛け声もなんだか的外れだ。ペトルーニャは多くの男たちと同じように幸運が欲しかっただけなのに、こうまで非難されることに納得がいかないのである。
それにしても彼女はいささか頑迷ではあるなと思い始めたころ、ペトルーニャは警官のダルコに悪気はなかったと吐露し「わたしは動物だわ」「あなたは仕事があっていいわね」と言う。ダルコが「ぼくにも君の勇気があればな」と応じると、彼女はこらえきれずにむせび泣く。にわかに彼女が憐れになる。法律の専門家の力もフェミニストの力も借りずに意固地に闘う彼女を、少なくとも悲運が見舞いませんようにと祈りたくなる。
ペトルーニャを演じるゾリツァ・ヌシェヴァはコメディエンヌだそうで、もし彼女の芸歴を知っていたら、きっと随所で笑いたくなる箇所があるのだろう。終盤では長期戦になると見込んだヒロインが取調室の大きなテーブルに大の字になって寝転がったり、検事の揺さぶりに堂々と歯向かったりするが、ひょっとするとこのあたりにも笑いの要素があるのかもしれない。主導権はじわじわと彼女に移り、ついには女王のような風格が醸し出される。彼女の言葉で言えば「わたしはオオカミになった」のであり、自分の頭で考えることなく老いた男たちは、攻撃に弱いただの羊さんに成り果てたのである。
心の安定を見出せずにバランスの悪い歩き方をしていたペトルーニャが、司祭に十字架を返還した後、自信に満ちた足取りで歩きだす、そのふくらはぎが清らかである。自分の人生は自分で切り開くものと言うのは簡単だが、それを一夜にして体得したペトルーニャの姿に圧倒される。彼女は十字架からたしかに幸運をもぎとったのである。
◎2021年5月22日より岩波ホール他全国順次公開
内海陽子プロフィール
1950年、東京都台東区生まれ。都立白鷗高校卒業後、三菱石油、百貨店松屋で事務職に従事。休みの日はほぼすべて映画鑑賞に費やす年月を経て、映画雑誌「キネマ旬報」に声をかけられ、1977年、「ニッポン個性派時代」というインタビューページのライターのひとりとしてスタート。この連載は同誌の読者賞を受賞し、「シネマ個性派ランド」(共著)として刊行された。1978年ころから、映画評論家として仕事を始めて現在に至る。(著者の新刊が出ました)
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