人生における美しい瞬間;『セイント・フランシス』の小さな体験
『セイント・フランシス』(2019・アレックス・トンプソン監督)
映画評論家・内海陽子
ゲイの男性の晩年を描く『スワンソング』(2021)の終盤に、海辺で楽しそうに子どもを遊ばせるゲイのカップルが現れる。「男同士が子育てをするようになった」と主人公(ウド・キアー)が亡き友に語るように、時代はどんどん変わる。男同士が子育てをすれば、女同士も子育てをする。『セイント・フランシス』は、ナニー(ベビーシッター)として女同士の子育てを手伝うことになった34歳の女性ブリジットと、6歳の女の子フランシスの物語だ。最初、二人の関係は滑らかではない。それは、ブリジットの人生が滞っているからであり、フランシスがまだ世の中と折り合いをつけられないからである。
フランシス(ラモーナ・エディス・ウィリアムズ)の両親はマヤ(チャリン・アルヴァレス)とアニー(リリー・モジェク)だ。彼女はマヤをマミーと呼び、アニーをママと呼ぶ。稼ぐのはアニーで、マヤは妊娠中で間もなく弟が生まれる。面接を受けたブリジット(ケリー・オサリヴァン)は、この自信に満ちたカップルが眩しく、いささか卑屈で投げやりだ。だがいざナニーを始めてみれば、マヤは乳飲み子の世話に疲れ、フランシスは情緒不安定で、ブリジットの心情とそう変わらない。この物語は、欠けたものをたくさん持つ人間同士が、なんとかコミュニケーションを取ろうとする、その姿を気取らずに追う。
つかの間のバイトと思っていたナニーの仕事はけっこう骨が折れる。フランシスは頭がよくてイジワルで、ナニーいじめの達人だ。とはいえだてに34年生きて来たわけではないブリジットが、あの手この手でフランシスを手なずけ、徐々に調子を合わせていく様子は小気味よい。異性交遊に関してフランクなブリジットは、フランシスの通うギター教室でイケメン講師にアプローチするなど、なかなかちゃっかりしている。やがて気の好い年下男ジェイス(マックス・リプシッツ)との間に子を宿したとわかり、彼女にとっては“望まない子”に思えて中絶する。ジェイスの気持ちは別のところにあるのだが。
この映画の一番の魅力はブリジットを演じるケリー・オサリヴァンその人だ。ブリジットは恵まれた白人女性のようだが、年齢、学歴、職業といずれも人より見劣りする段階にある。アメリカという国に限ったことではないが、人はさまざまな差異を見つけては優越感に浸る。それを見せつけられてくさることが常態化しているブリジットを、オサリヴァンは健康そうな身を縮めるようにして表現する。過剰な嘆きはないが、重い雲が頭上に垂れ込めている感じが他人事でなく伝わり、そこに無理がない。すぐそばで生きている親しい友のように思えて応援したくなる。それはフランシスも同じだ。
マヤの隣人の主婦が、かつてブリジットの学友だったとわかり、一瞬盛り上がるが、ブリジットが一年で退学したと知ったとたん、主婦の態度が変わる。あからさまな侮蔑が加わり、ブリジットを召使扱いする。マヤは気づいておろおろするが何もできず、この状態で行動を起こすのはフランシスだ。大したことをするわけではないが、それはブリジットを大いに勇気づけ、二人の絆は深まる。隣人主婦は自分が勝っていると思いたいだけで、その実、つまらない人生を送っているとわかっているのではないか。人は厄介だ。
マヤとアニーの仲にも暗雲が垂れ込める。さっそうとしたキャリアウーマンに見えるアニーは心ない黒人差別にさらされており、なんと、マヤとブリジットの関係を疑っていることがわかる。いつの間にかアニーは家庭内で心理的に孤立していたのである。人の心の変化は本当にわからない。ブリジットは自分だけが満たされない人間というわけではないということを知る。少し世の中が広くなる。そういう変化が確実にフランシスにも伝わる。
題名の『セイント・フランシス』は、ブリジットとフランシスが、教会で告解ごっこをするところからきているのだろう。「立派になりたい」と告白するブリジットに、聖人に扮したフランシスは「怖くても逃げないから、立派だよ」ときっぱり言う。6歳の女の子の知性が輝くばかりだ。ここでの一連の会話は的確すぎるようにも思えるが、演じるオサリヴァンとウィリアムズの自然な感情の高まりは非常に美しく、人生においてこういう理想的な瞬間は確かにあると思わせる。
「あたしに生理が来たら教える」というのがフランシスの別れのセリフで、精いっぱいの愛情表現である。それはブリジットの中で大きくふくらんで、言葉以上のものをたくさんもらう。ひと夏の小さなナニー体験は、ブリジットが母になり、幼児になり、黒人になり、間違えられて愛人にもなるという、大きなイベントになった。わが人生に悔いなし、ブリジットは勇気をもって生きて行く。
◎2022年8月19日より公開
内海陽子プロフィール
1950年、東京都台東区生まれ。都立白鷗高校卒業後、三菱石油、百貨店松屋で事務職に従事。休みの日はほぼすべて映画鑑賞に費やす年月を経て、映画雑誌「キネマ旬報」に声をかけられ、1977年、「ニッポン個性派時代」というインタビューページのライターのひとりとしてスタート。この連載は同誌の読者賞を受賞し、「シネマ個性派ランド」(共著)として刊行された。1978年ころから、映画評論家として仕事を始めて現在に至る。(著者の近著はこちら)
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