肩の凝らない、いいセーター;今泉力哉監督の『猫は逃げた』は恋のトラブルの高みの見物
『猫は逃げた』(2021・今泉力哉監督)
映画評論家・内海陽子
子はかすがいという時代は去って、今や猫はかすがいという時代になったかもしれない、と考察する映画であろうか。小説家を志しつつ、週刊誌記者をしている町田広重(毎熊克哉)と、漫画家として成功した妻・亜子(山本奈衣瑠)は、今ちょうど離婚届を完成させたところである。ところが、落ち着かない風情の愛猫カンタが、テーブルに置かれた離婚届におしっこをしてしまう。それを見てどことなくいそいそと立ち上がった広重は「あ~あ」と言いながら、わざとおしっこを届出用紙全体に広げるような振る舞いをし、そそくさとたたんでしまう。そうか、彼はまだ離婚したくないのだ。亜子はそれに気づかない、あるいは気づかないふりをしている。
夫婦のどちらがカンタを引き取るか、話し合いをしなければならないと言いつつ、同僚の記者・真美子(手島実優)と浮気している広重。いっぽうの亜子は担当編集者の松山(井之脇海)と浮気している。優柔不断な広重がなかなか亜子と別れないことにいら立つ真美子は、なんとか夫婦を別れさせようと、ある作戦をひねり出す。はたしてそれはどういう効果をもたらすだろう。数年の夫婦関係というのは、独り身の若い娘には計り知れないものがある、と映画の作り手はくすりと笑う。
実際、離婚話が進んでいるというのに、広重と亜子は淡々とした毎日を過ごしている。双方、少しぎこちないので、なんだか初々しい夫婦のようにも見える。朝帰りをして、亜子の作ったカレーを食べる広重に亜子が嫌みを言うでもなく、カンタをどちらが引き取るかという話もする気がなさそうで、この状態が夫婦の日常になってしまったようだ。そうこうするうち、カンタがいなくなってしまう。
おしっこをしたカンタは何を考えていたのか。恋人のミミとの逢瀬のことでも考えていたか。これが愛犬なら、夫婦別れを思いとどまらせようとする、いじらしい態度に見えないこともないだろうが、猫はもっと自由で身勝手でおのれの欲望に従う生きものだ。たぶん、美味しい食事を与えてくれる人がいるなら、それでいいと思っているに違いない。おしっこをしたいと思ったからおしっこをした、それを広重が都合よく利用しただけである。
などと考えて楽しくなるのが今泉力哉監督の映画であり、登場人物がぶつかればぶつかるほど面白くなる。カンタがいなくなった原因がわかり、登場人物4人が町田家で顔を突き合わせることになるが、こういう場合、口達者になるのは女性だ。亜子が思いつくままにまくしたてれば、真美子は見聞きしたことがらをもとに屁理屈を並べたてる。場違いにも「ジャーナリストをなめないでよ」と口走って妙な効果を醸すのもおかしく、両者の間で気をもむ松山の人の好さも伝わる。そして広重はほぼ無言である。
ただそこにいる、それだけの演技には相当な修練が必要だ。毎熊克哉という俳優が実にいい俳優だということに遅まきながら気づく。広重は何も言えないが何も考えていないわけではなく、かといってそういう自分を過剰に押し出す気配もない。心が盛んに働いている様子が、じゃまにならないベースの演奏のように場面全体を引き締めている。そしてついに、ある発言で夫婦が“はもる”。このタイミングの良さと意図しない残酷さ、真美子と松山に与えるダメージが決定的で、観ているわたしもため息がもれる。恋のトラブルの高みの見物の醍醐味である。
この場面を救うのが、真打登場とばかりに帰還するカンタである。たぶんミミとのデートがすんでお腹が減っただけのことではないかと思うが、亜子と広重を歓喜させ、真美子と松山にきっぱり引導を渡す。何も考えていないはずのカンタが出番を心得た賢い猫に見えてくる。これだから猫は狡いと思わないでもないが、むろん、狡いのは猫に自分の心情を託す人間のほうで、この後も、優柔不断な町田夫妻の日々は続くのである。
かつて『愛がなんだ』(2019)をこの欄で紹介した際、監督の今泉力哉氏がコメントを寄せてくれた。そこに「これからもいい洋服、ときにはセーター、ときにはスーツをつくっていきたいと思います」と書かれていて光栄に思ったが、この『猫は逃げた』はまさに、肩の凝らない、いいセーターである。まだまだ寒いこの季節にあなたをそっと温めてくれます。
◎2022年3月18日より全国公開
内海陽子プロフィール
1950年、東京都台東区生まれ。都立白鷗高校卒業後、三菱石油、百貨店松屋で事務職に従事。休みの日はほぼすべて映画鑑賞に費やす年月を経て、映画雑誌「キネマ旬報」に声をかけられ、1977年、「ニッポン個性派時代」というインタビューページのライターのひとりとしてスタート。この連載は同誌の読者賞を受賞し、「シネマ個性派ランド」(共著)として刊行された。1978年ころから、映画評論家として仕事を始めて現在に至る。(著者の近著はこちら)
『愛がなんだ』:悲しみとおかしみを包み込む上質なコートのような仕上がり
『バースデー・ワンダーランド』:情感とスピード感に満ちた贅沢なひととき
『家族にサルーテ! イスキア島は大騒動』:けっして自分の生き方を諦めない大人たちを描きぬく
『エリカ38』:浅田美代子が醸し出す途方に暮れた少女のおもかげ
『ファイティング・ダディ 怒りの除雪車』:本作が断然お薦め! 頑固一徹闘うジジイ
『DANCE WITH ME ダンス ウィズ ミー』:正常モードから異常モードへの転換センスのよさ
『記憶にございません!』:笑いのお座敷列車 中井貴一の演技が素敵!
RBGがまだ世間知らずだったとき:ルース・B・ギンズバーグの闘い
『劇場版おっさんずラブ LOVE or DEAD』常に新鮮で的確な田中圭のリアクション
千葉雄大の孤軍奮闘にハラハラ;『スマホを落としただけなのに 囚われの殺人鬼』
成田凌から飛び出す得体のしれないもの;ヨコハマ映画祭・助演男優賞受賞に寄せて
情熱あふれる歌・踊り・群舞;『ヲタクに恋は難しい』の高畑充希になり切る
生きていると否応なく生じる隙間;『街の上で』若葉竜也の「素朴」さに注目!
ヒロインを再現出させる魔術;ゼルウィガーの『ジュディ 虹の彼方に』
オフビートの笑いが楽しい;『デッド・ドント・ダイ』のビル・マーレイを見よ
現代によみがえる四人姉妹;『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』
夜にたたずむ男の見果てぬ夢;『一度も撃ってません』の石橋蓮司に映画館で会おう
長澤まさみの艶姿を見よ!;『コンフィデンスマン JP プリンセス編』は快作中の快作
どことなく滑稽でどことなく怖い;『星の子』にみる芦田愛菜の包容力
挑戦をやめない家族;『ヒトラーに盗られたうさぎ』でリフレッシュ
おらおらでひとりいぐも;田中裕子の『おらおらでひとりいぐも』
内海陽子「誇り高き者の確執、愛憎」;佐野亨編『リドリー・スコット』に寄稿しました
小粋な女性のサッカー・チーム;『クイーンズ・オブ・フィールド』で愉快になれる
娑婆は我慢の連続、でも空は広い;西川美和監督の『すばらしき世界』は温かく冷たい
感情を自在に操ることのできる演技者・水川あさみ;ヨコハマ映画祭・主演女優賞受賞によせて
最高の「嘘っぱち!」物語;『騙し絵の牙』の大泉洋は期待通りの全開
チャーミングな老人映画;『カムバック・トゥ・ハリウッド‼』を見逃すな
「打倒! まとも」が新しい世界を運んでくる;『まともじゃないのは君も一緒』の成田凌を深読みする
役所広司の醸し出す「歴史」;『峠 最後のサムライ』のぬくもり
異様な細部がすばらしい『ベルヴィル・ランデブー』;おばあちゃんの闘争は続く!
恋ゆえに渡る危ない橋『ファイナル・プラン』;リーアム・ニーソンからの「夢のギフト」
王道を行く人情コメディ;やっぱり笑える『明日に向かって笑え!』
「君は世界を守れ、俺は君を守る」;初々しい『少年の君』のチョウ・ドンユイ
漫画家夫婦の不倫ゲームを楽しむ;黒木華と柄本佑の『先生、私の隣に座っていただけませんか?』
未来についての勇気の物語;『愛のくだらない』の藤原麻希がみせる推進力
ムロツヨシの「愚直」な演技力;『マイ・ダディ』の聖なる滑稽さ
ジェイソン・ステイサムの暗く鈍い輝き;『キャッシュトラック』の「悪役」が魅せる
底なし沼に足を踏み入れたヒロイン;『アンテベラム』の終わらない感情
早すぎる時間の中での成長;『オールド』にみるシャマラン監督の新境地
二人はともに優しい女房のよう;西島秀俊と内野聖陽の『劇場版 きのう何食べた?』
おどおどしつつも男の意気地が光る!;中谷美紀と田中圭の『総理の夫』
生き生きとした幸福のヒント;加賀まりこが母を演じる『梅切らぬバカ』
前進する者への確かなエール;リーアム・ニーソンの『マークスマン』
小さな人間にも偉大なことはできる;妻の仇討ち物語『ライダーズ・オブ・ジャスティス』
AIを超える人間の誠意;『ブラックボックス 音声分析捜査』の最後に残る希望とは
体全体で感じる音楽の喜び;『CODA あいのうた』の家族たち
胸がすく女殺し屋の戦闘シーン;『ガンパウダー・ミルクシェイク』から目を離すな!
臨床心理士が逆に心を解読される恐怖;『カウンセラー』がみせる短編映画の切れ味
深い思いやりをもって吸い付くように伴走する笠松則通の眼;ヨコハマ映画祭・撮影賞によせて
肩の凝らない、いいセーター;今泉力哉監督の『猫は逃げた』は恋のトラブルの高みの見物