ゆっくり考える(続々)

 ゆっくり考えるのか、それともすぐに判断するのか。意外に思うかもしれませんが、この問題は戦略論のなかでも大きなテーマです。ある国際政治学者は「政治にとって時間は資源である」といったことがありました。

 時間を使って説得したり、状況が変わるのを待ったりすることが、政治にはきわめて重要で、それは「資源」と考えるべきだというわけです。それどころか、政治的判断において指導者が、どのような時間感覚をもっているかは、決定的な違いを生み出すのです。

 数年前、冷戦の研究家であるジョン・ギャディスが『グランド・ストラテジー(大戦略)について』という本を刊行して話題になりました。ここでもリーダーが抱いている時間感覚と判断との関係が大きな問題となっています。この本はもともと一般向けの連続講演をまとめたもので、講演を続けているあいだも、ギャディスの歴史や思想史における該博な知識は、聴衆を驚かせていました。

 意外なことに、いまや先端技術や核兵器が大きなファクターである大戦略論の話を、冷戦の専門家であるギャディスが、紀元前5世紀に古代ギリシャを征服しようとした古代ペルシャ帝国のクセルクセス王と、その叔父でアドバイザーのアルタバノスの対立から語りはじめています。

 クセルクセスは、百年後をイメージした歴史的偉業のためにギリシャを攻めようとしているのですが、いっぽうアルタバノスは、もともとこの戦役には懐疑的でした。当面のさまざまな条件を勘案すると、ギリシャを支配するプラス要素に比べて、そのための戦争に付随するマイナス要素は大きすぎると考えていたのです。

 ギャディスがこの対立を際立たせるため、まず取り上げたのが、これも意外なことに、アイザー・バーリンの『狐とハリネズミ』でした。バーリンはロシア生まれの政治思想家ですが、この奇妙な題のついた小著で「狐はたくさんのことを知っているが、ハリネズミは肝心なことをひとつだけ知っている」という箴言をもとに、トルストイの『戦争と平和』で展開された歴史哲学を分析しているのです。

 では、バーリンによればトルストイは狐なのかハリネズミなのか。当然、壮大な歴史小説を書いたトルストイは、ハリネズミのように肝心のことを語ったのだろうと予測しますが、バーリンは否定します。トルストイは、実は、狐型の人間だったのに、自分がスケールの大きいハリネズミ型の思想家であるかのように振る舞おうとしたと論じて、読者をなんとも居心地の悪いまま放り出してしまうのです。

 この不思議な著作を語りながら、ギャディスがもちだすのは、現代アメリカで統計的データからつくられた成功のためのノウハウ本です。この本によれば「成功者」と呼ばれる人たちのほとんどが狐型であり、ハリネズミ型のリーダーはかならずしも成功者にはなっていないというのです。これはこれで分かりやすい話で、ビジネスでの成功とはそんなものでしょう。ではギャディスが、たくさんの知識をもつ狐型を推奨するのかといえば、そうでもないのです。

 なかなか結論めいたことはいわず、さらにギャディスが付け加えるのは、この連載「ゆっくり考える」の初回で紹介したダニエル・カーネマンの「ファスト&スロー」の話です。思い出していただきたいのですが、カーネマンたちの心理学的な実験は、「はやく」考えたときには反射的に答えを出していることが多く、「ゆっくり」考えたとき動きだす思考能力を用いていないことが指摘されていました。

 そこで「ゆっくり」考える指導者と「はやく」考える指導者という対比が浮かび上がってくるのですが、ギャディスはこの「ファスト&スロー」にかなり大きな比重を載せていることは確かでも、必ずしも全面的に賛成しているわけではないのです。

 ここまでギャディスに従って、彼が語る戦略における判断の基準らしきものをあげてきましたが、どうやらギャディスは何かお手軽で分かりやすい判断基準を選ぼうとしているわけではなくて、もっと別のことを言いたがっていることに気づかされます。

 そもそも、クセルクセスはすでに歴史が語るように、この大戦役に失敗して古代ギリシャ征服をあきらめました。では、叔父のアルタバノスのように当面の成功(非失敗)を求めることが正しいかといえば、その後、ギリシャ文明圏からアレクサンドロス大王が登場して、約50年後にはペルシャ帝国を征服したことを考えれば、長期的に見た場合、アルタバノスが成功したとはとてもいえないのです。

 にもかかわらず、ギャディスは判断におけるさまざまな基準を通じて、歴史上の大戦略の成功や失敗を有効に語ることが可能だと考えているようなのです。あえて単純化して言ってしまえば、長期的な視点と短期的な視点の葛藤、狐とハリネズミという資質の相違、ゆっくりと考えようとしながら、はやく判断してしまう罠などを、すべて乗り越えて統合していくところに、大戦略の思考が成立するのでしょう。

 そんなことが可能なのかといえば、すべては無理だけれど、部分的に達成した人間もいるかもしれません。また、ほとんど意識しないままに、かなりいい線までいった人物もいたでしょう。あるいは、すべてを計算づくでやったにもかかわらず、資質の点で総合できなかった指導者もいたのかもしれない。

 事実、ギャディスは講演の第2回目から、次々と世界史に登場する指導者や思想家を取り上げて彼らの戦略思想を解釈してみせるのです。大戦略を成功に導くための営為を、過去の出来事をなぞっていくことで、実践はともかくとして、普通の人間にも認識はできるはずだというのが、この貴重な講演の趣旨だったのではないかと思われます。(つづく)

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