フク兄さんとの哲学対話(2)ニーチェと宗教などについて

 フク兄さんはなかなかつかまらない。つかまっても、急にいなくなってしまう。ようやくのことで久しぶりに対話ができたが、フク兄さんの突然の思いつきで、話は意外な方向にずれこんでしまった。前回同様、( )内はわたしの内心のつぶやき。

フク兄さん あの後、考えてみたんじゃが、お前の説明によれば、哲学とか思想とかは、世界がどうできているとか、人はどう生きるかを考えるんだという。じゃあ、宗教とはどうちがうんじゃ? 宗教も同じことを扱っておるんじゃないかな。

わたし え? 宗教。う~ん、もちろん違うんだけど、でも、説明するのはむずかしいよね。だって、西洋でも中世において思想は宗教のことだったし、日本でも鎌倉時代の思想といったら、仏教が中心になるからなあ。

フク兄さん ということは、宗教も哲学も変わりないじゃないか。

わたし う~ん、そう簡単にはいえないんだなあ。たとえば、宗教と哲学が併存していた古代ギリシャでも、ギリシャの神々のご託宣に耳を傾けながら、そのいっぽうで、論理的な哲学議論をしていたんだ。プラトンなんかは国家論を議論しながら、死後の世界を延々と語って、自分の国家論の正当化をしているようなところがある。

フク兄さん じゃろ。(なにが、じゃろ、だ)ともかく、世界のなりたちとか人の生き方といえば、宗教のほうが大きいと感じている者のほうが多いような気がするぞ。

わたし たしかに西洋の中世においては、「哲学は神学の婢(はしため)」などといわれて、キリスト教の教義を論理的に整理してみせるのが哲学の役割とされていた。でも、逆にプラトンの国家論では、ギリシャの神々や死後の世界は、哲学の議論を支えるために出てくるんだよね。戦前のギリシャ思想史家ギルバート・マレーは「宗教は雑草だが、哲学は花である。手をかけねばならない」と言っている。

フク兄さん そのマロさん(マレーだよ)という人は、庭に花を植えていて、雑草が多いので困っているんじゃろなあ。

わたし まあ、19世紀後半にはニーチェが、すでにギリシャにはアポロン的なものとディオニソス的なものがあるといっている。つまり、論理的で清明な思想と非論理的で濁暗の思想が両方あったというわけだ。しかも、ニーチェはディオニソス的な情念を評価した。1950年代だったと思うけど、エリック・ドッズというギリシャ思想史家はギリシャ人の非理性はありふれていたといっているし……。

フク兄さん ふむ、ふむ。

わたし しかし、やっぱり哲学の場合には、議論の根拠になるものをあくまで論理的に突きつめていくという姿勢がある。宗教のように、啓示とか悟りとかいうようなものを根拠にはしないなあ。ここが哲学と宗教とのいちばん大きい違いといえる(よし、決まったな)。

フク兄さん あ、昔きいた話じゃが、いまでてきたニーチェとかいう人は、山を下りている間に、この世は永遠に繰り返すという思いつきが、突然、頭に浮かんだらしいな。ということは、ニーチェという人は、宗教家みたいなもんじゃな。

わたし え? ニーチェは宗教、う~ん、そういえないこともないけど……。その、世界は永遠に回帰するというのは、『ツァラトゥストラはかく語りき』に出てくる話で、ニーチェが思いついたというよりツァラトゥストラが思いついたわけだよ。ツァラトゥストラ、つまりゾロアスターは拝火教の教祖だから、宗教的な悟りであっても何の不思議もない。

フク兄さん ふ~ん、ニーチェという人は、ゾロアスターのふりをしているときは宗教家だけど、ニーチェに戻ったときは哲学者だということになるのかのう?

わたし う~ん、ニーチェは『ツァラトゥストラはかく語りき』を書いてしばらくして、「もうツアラトゥストラに語らせるのはやめよう。わたしが語ろう」というような殴り書きをしているので、その2つを分けるのはやめようと思っていたのかもしれない。そもそも、『ツァラトゥストラはかく語りき』は、聖書のルター訳の文体を模したという話もあるから、宗教的文書を模して宗教的な匂いをつけようとしたのかも。

フク兄さん ほら、やっぱり宗教と哲学は分けられないじゃろが。

わたし もうひとつ、宗教と哲学との違いをいえば、宗教は絶対者とか至高の存在を前提とするけれど、哲学にはそれはないということだなあ。つまり、神様がいるというのが前提だけれど、哲学には絶対的なものを前提とすることはない(これで、決まったかな)。

フク兄さん ほう、ほう……。しかし、仏教なんかは神様がいないぞ。むかし、近所のじいさんに聞いたことじゃが、もともとの仏教では生まれ変わりなんかもないといっておった。仏も菩薩も神様みたいな存在ではないのじゃ。宗教だから、おまえのいう絶対的なものが前提だというのは、あやしいのじゃなかろか。

わたし う~ん、よくキリスト教徒とか外国人が、仏教には神様がいないから、あれは哲学か世界観といったほうがいいと言うけれど、大衆に広まった仏教というのは、たいがいの場合、仏様を拝んでいる。だから、かなり微妙な話だけれど、現れ方としては宗教だよね。さっきのニーチェでいえば、彼は仏教がパッシブ・ニヒリズムの典型だといっている。ニヒリズムに陥っても積極的に何かを求めるのがアクティブ・ニヒリズムであるのにたいして、本来の仏教は受け身でともかく涅槃に入る(つまり、生まれ変わらない)ことだけをめざすからなんだね。

フク兄さん ま、あんまり厳密になるのも考えもんだから、宗教は神とか仏とかが前提だけど、哲学は必ずしもそれにはこだわらないということでもいいが……。それより、弟よ、そろそろ、出てくるべきものが出てきていいと思うが、どうじゃ。

わたし え? 出て来るべきもの? ……あ、なに、お酒のこと?

フク兄さん それ、それ。この対話に出る前提は、お酒が出てくるということじゃったはずだからのう。もう、それは、議論のすべての絶対的な前提なのじゃよ。ほっほっほ。

わたし じゃ、すこしだけお酒を飲んで、対話を続けることにしようか(やれやれ)。

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