漫画家夫婦の不倫ゲームを楽しむ;黒木華と柄本佑の『先生、私の隣に座っていただけませんか?』

『先生、私の隣に座っていただけませんか?』(2021・堀江貴大監督)

 映画評論家・内海陽子

 漫画が物語の重要な役割をになう映画が続く。6月に公開された『キャラクター』(2021・永井総監督)は、えぐみの強いホラー系漫画が中心に据えられ、仕掛け人のサイコパス(Fukase)が漫画家(菅田将暉)をきりきり舞いさせる。この『先生、私の隣に座っていただけませんか?』は、ファンタジーを得意とする漫画家(黒木華)が、実録不倫漫画を描き始めるところから始まるが、『キャラクター』を上回るある種のホラーと化していく。サイコパスの狂気よりも、創作者の想像力のほうがはるかに強く、復讐心ははるかに深いのではないだろうか。

 同じ部屋で仕事をする漫画家の俊夫(柄本佑)と佐和子(黒木華)。といっても俊夫は自分の漫画を描けなくなっており、いまは妻の描く漫画の手伝いだ。佐和子の原稿を受け取って上機嫌で帰る編集者の千佳(奈緒)を「送って行ったら?」とさりげなく言う佐和子の表情には屈託があり、一瞬ためらう俊夫と喜ぶ千佳の表情から、二人が不倫関係にあるということがすぐわかる。手札を公開したうえで「さて、これから物語を始めますよ」という作者の姿勢に潔さとほどよい挑戦心があり、この映画の好感度を上げる。

 佐和子の母・真由美(風吹ジュン)が交通事故で怪我をし、夫婦は彼女の自宅に移り住む。愛想のいい俊夫を歓迎しながら、母は娘の屈託に気づき、やがてその原因を察する。車の運転をできない佐和子は、おそらく夫からの自立を考えて自動車教習所に通い始めるが、アクセルを踏むことができない。トラウマゆえであろうと、軽く見過ごしてしまいそうなシーンだが、アクセルを踏む、という行為にひそむ佐和子の決断の重さが徐々にわかってくる。このとき、彼女はある計画を実行に移すべきか否か、逡巡していたのだ。

 佐和子の背中を押したのは若い教官・新谷(金子大地)だが、実際、佐和子がアクセルを踏んだのは、彼が単に優しかったからだけではない。彼が十分に好青年であり、自分に関心があり、今後の二人の関係が自分の計画に沿ったものになっていくであろう、という冷徹な確信を得たからである。人間は変貌する。佐和子は引っ込み思案で夢見がちな漫画家から、大胆不敵な冒険家へと雄飛することになる。この、はた目にはよくわからない変貌を、黒木華はなめらかにすがすがしく表現して、観客を味方につける。

 佐和子がわざとらしく自室の机に置いた漫画のネームを盗み見した俊夫は仰天する。隠しおおせていたはずの千佳との交際が赤裸々に描かれ、教習所の教官と佐和子との恋の始まりが告げられていたからだ。慌てふためき、佐和子への関心が急に高まるあたり、俊夫の男としてのレベルがよくわかる。さほどの覚悟もない浮気、佐和子をだましおおせると考えていた頭の悪さ、それがさらに佐和子を絶望させる。脂汗がにじむ柄本佑の表情が、この危機をなんとかしたい、なんとかできると考える俊夫の浅はかさを強調して、素晴らしい見ものである。佐和子自身は直に見ることのできないこの表情を、いま、わたしは見ているのだという贅沢に小躍りしたくなる。

 さらに関心を引くのが千佳の挙動で、慎ましさのかけらもない態度で真由美の家にやってくる。俊夫に事態を告げられても驚かず、むしろ面白がり、それが自分の仕事の進展へと広がることがわかると狂喜する。真由美に聞こえそうなほどの嬌声を上げ、俊夫をからかう。ここで俊夫は千佳に失望し、心底自分の所業を後悔してもよさそうなものだが、そういうことを考えるいとまもなく佐和子の意外な行動に振り回される。彼の頭にあるのは、ただ穏便に元の鞘に収まることだけ。つまり命を懸けるということのできないダメ男なのだ。

 真由美は余計な口をきかず「ほんと、昔っから面倒くさい子なのよね」と慨嘆するだけだが、やがてその言葉の真意がわかることになる。母には母の長い暮らしがあり、娘とは違う人格のようでいて似ているところもあり、それどころか、もっと過激な半生を過ごしてきたかもしれない。そういえば、彼女が畑仕事をしている最中、突然現れた千佳の前に、手に持った鎌を隠さずにごく自然に立つシーンがある。ここで母はすべてを見抜き、娘のために戦闘態勢を整えたのではないだろうか。それに気づかないふりをする千佳もたいしたもので、いずれにしても俊夫にはわからないことだらけだろう。

俊夫が女というものをわかるようになるのはいつだろう。これから“生き地獄”で過ごすことになる彼の姿を想像すると、わたしとは何の関係もないのに心晴れ晴れとする。

◎2021年9月10日より公開

内海陽子プロフィール

1950年、東京都台東区生まれ。都立白鷗高校卒業後、三菱石油、百貨店松屋で事務職に従事。休みの日はほぼすべて映画鑑賞に費やす年月を経て、映画雑誌「キネマ旬報」に声をかけられ、1977年、「ニッポン個性派時代」というインタビューページのライターのひとりとしてスタート。この連載は同誌の読者賞を受賞し、「シネマ個性派ランド」(共著)として刊行された。1978年ころから、映画評論家として仕事を始めて現在に至る。(著者の近著はこちら

 

内海陽子のほかのページもどうぞ

『愛がなんだ』:悲しみとおかしみを包み込む上質なコートのような仕上がり

『バースデー・ワンダーランド』:情感とスピード感に満ちた贅沢なひととき

『家族にサルーテ! イスキア島は大騒動』:けっして自分の生き方を諦めない大人たちを描きぬく

『町田くんの世界』:熱風がユーモアにつつまれて吹き続ける

『エリカ38』:浅田美代子が醸し出す途方に暮れた少女のおもかげ

『ファイティング・ダディ 怒りの除雪車』:本作が断然お薦め! 頑固一徹闘うジジイ

『DANCE WITH ME ダンス ウィズ ミー』:正常モードから異常モードへの転換センスのよさ

『記憶にございません!』:笑いのお座敷列車 中井貴一の演技が素敵!

熱い血を感じさせる「男の子」の西部劇

RBGがまだ世間知らずだったとき:ルース・B・ギンズバーグの闘い

『劇場版おっさんずラブ LOVE or DEAD』常に新鮮で的確な田中圭のリアクション

俺はまだ夢の途中だぁ~!:草彅剛の持ち味満喫

相手を「発見」し続ける喜び:アイネクライネナハトムジーク

僕の人生は喜劇だ!;ホアキン・フェニックスの可憐な熱演

カトリーヌ・ドヌーヴの物語を生む力

悲しみと愚かさと大胆さ;恋を発酵させるもうひとりのヒロイン

獲れたての魚のような映画;フィッシャーマンズ・ソング

肩肘張らない詐欺ゲーム;『嘘八百 京町ロワイヤル』

あったかく鼻の奥がつんとする;『星屑の町』の懐かしさ

高級もなかの深い味わい;『初恋』の三池崇史節に酔う

千葉雄大の孤軍奮闘にハラハラ;『スマホを落としただけなのに 囚われの殺人鬼』

成田凌から飛び出す得体のしれないもの;ヨコハマ映画祭・助演男優賞受賞に寄せて

関水渚のふてくされた顔がいい;キネマ旬報新人女優賞受賞

情熱あふれる歌・踊り・群舞;『ヲタクに恋は難しい』の高畑充希になり切る

受賞者の挨拶はスリリング;キネマ旬報ベスト・テン 続報!

年を取るってすばらしいこと;波瑠と成田凌の『弥生、三月』

洗練された泥臭さに乾杯!;『最高の花婿 アンコール』

生きていると否応なく生じる隙間;『街の上で』若葉竜也の「素朴」さに注目!

ヒロインを再現出させる魔術;ゼルウィガーの『ジュディ 虹の彼方に』

わたしはオオカミになった;『ペトルーニャに祝福を』

心が晴れ晴れとする作品;『五億円のじんせい』の気性のよさ

「境目」を超え続けた人;大杉漣さんの現場

老いた眼差しの向こう;『ぶあいそうな手紙』が開く夢

オフビートの笑いが楽しい;『デッド・ドント・ダイ』のビル・マーレイを見よ

現代によみがえる四人姉妹;『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』

夜にたたずむ男の見果てぬ夢;『一度も撃ってません』の石橋蓮司に映画館で会おう

長澤まさみの艶姿を見よ!;『コンフィデンスマン JP プリンセス編』は快作中の快作

幸運を呼ぶ赤パンツ;濱田岳と水川あさみの『喜劇 愛妻物語』

刃の上を歩くような恋;『燃ゆる女の肖像』から匂い立つ輝き

どことなく滑稽でどことなく怖い;『星の子』にみる芦田愛菜の包容力

挑戦をやめない家族;『ヒトラーに盗られたうさぎ』でリフレッシュ

おらおらでひとりいぐも;田中裕子の『おらおらでひとりいぐも』

弱い人間への労りのまなざし;波留の『ホテルローヤル』

内海陽子「誇り高き者の確執、愛憎」;佐野亨編『リドリー・スコット』に寄稿しました

小粋な女性のサッカー・チーム;『クイーンズ・オブ・フィールド』で愉快になれる

娑婆は我慢の連続、でも空は広い;西川美和監督の『すばらしき世界』は温かく冷たい

感情を自在に操ることのできる演技者・水川あさみ;ヨコハマ映画祭・主演女優賞受賞によせて

最高の「嘘っぱち!」物語;『騙し絵の牙』の大泉洋は期待通りの全開

チャーミングな老人映画;『カムバック・トゥ・ハリウッド‼』を見逃すな

「打倒! まとも」が新しい世界を運んでくる;『まともじゃないのは君も一緒』の成田凌を深読みする

役所広司の醸し出す「歴史」;『峠 最後のサムライ』のぬくもり

異様な細部がすばらしい『ベルヴィル・ランデブー』;おばあちゃんの闘争は続く!

恋ゆえに渡る危ない橋『ファイナル・プラン』;リーアム・ニーソンからの「夢のギフト」

王道を行く人情コメディ;やっぱり笑える『明日に向かって笑え!』

「君は世界を守れ、俺は君を守る」;初々しい『少年の君』のチョウ・ドンユイ

漫画家夫婦の不倫ゲームを楽しむ;黒木華と柄本佑の『先生、私の隣に座っていただけませんか?』

未来についての勇気の物語;『愛のくだらない』の藤原麻希がみせる推進力


『女優の肖像』全2巻 ご覧ください

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください