『悪い夏』には人間への信頼がある;堕ちていった底での意外な救い

『悪い夏』(2025・城定秀夫監督)

 映画評論家・内海陽子

 映画で不機嫌そうな顔を見続けたくないが、そういう顔を見ているうち、だんだん楽しくなってくることがある。このようなことが起こるのは、演じている側がしんから楽しそうに不機嫌そうな人を演じているからだろう。この『悪い夏』の登場人物は、ほとんどすべての人が不機嫌にならざるを得ない状況にあるが、誰もが一生懸命に不機嫌をやっているので、次第に前向きな気持ちになって行く。物語の展開が前向きなのだ。

 うだるような夏。市役所生活福祉課のケースワーカーをしている佐々木(北村匠海)は、生活保護費の不正受給の疑いが濃厚な山田(竹原ピストル)を持て余している。実際、山田はだらしない小悪党だ。同じく受給者でシングルマザーの愛美(河合優実)は、佐々木の同僚の高野(毎熊克哉)に無断で働いているところを目撃され、脅されている。佐々木のもう一人の同僚の宮田(伊藤万里華)は高野の行為を見抜いており、真相を究明したいと佐々木に頼む。風俗店を経営するやり手のヤクザ、金本(窪田正孝)は愛美に事情を聴き、高野を利用してホームレスを生活保護受給者に仕立てて儲けようと考える。

 佐々木が、愛美の幼い娘・美空の境遇に同情したのは、彼の幼いころの体験と関係があるのだろう。すり減ったクレヨンを美空にプレゼントしたことから、娘は佐々木になつき、愛美も彼に心を許す。同情が愛情へと進展し、佐々木と愛美はごく自然に気持ちを寄せあう。愛美は生まれて初めて誕生日を祝ってもらい、3人は家族同然のぬくもりを抱きあう。こういう幸せをほうっておかないのが悪いやつらで、まずは山田が仕掛け、金本がいよいよ本気になって佐々木を利用し、ホームレスを集めての貧困ビジネスに乗り出す。

 悪いやつらの中では、まず山田役の竹原ピストルが画面をさらう。薄ら笑いを浮かべつつ、勤勉で純情な佐々木を言葉でいたぶる。いっぽうで、美空にカップラーメンを食べさせるしぐさなど、山田に娘がいたことがわかり、妻子に逃げられた過去が見えるところに哀愁がある。金本役の窪田正孝は『マイ・ブロークン・マリコ』(2022・タナダユキ監督)で見せた訥々とした風情をかなぐり捨て、歯をむき出し、卑しさを全開にして、この根っから腐っている男を演じる。やせて見えるががっちりした体格で、金本の不良さをアクションスターのように演じて、妙にかっこいい。

 彼らに圧力をかけられ、最悪の境遇に追いやられた佐々木が、ほんとうに生活保護を受けるべき資格がある佳澄(木南晴夏)とその息子を前に、うっぷんをぶちまけるうち、内容は愛美の心変わりに対しての恨み言に変わる。自分たちと直接関係のない悪口雑言を聴かされ、去って行った佳澄母子の想いが宙に浮いたままになる。そして怖ろしいことが起こる。それほど残酷になってしまった男の心理を北村匠海が精いっぱい演じ、活きがいい。

 佐々木が未練たっぷりに口にするのは、誕生日祝いを喜んだ愛美の「いなくならないでね」という一言だ。「あれはなんだったんだっ」と佐々木に詰問されても、愛美には答えようがない。彼女はそういうふうに生きてきてしまった女なのだ。困った事態に激しく立ち向かうことのできるエネルギーが枯渇してしまっている。そういうあいまいな女を河合優実は力なく的確に演じる。余情が漂う。

 むろん、この二人にも反撃のチャンスがめぐってくる。愛美のアパートを舞台に始まる大立ち回りは、まるでそれぞれが打ち上げ花火のように派手で思い切りがよく、観客の目を楽しませることこの上ない。事態は雨の降りしきる外へと飛び出し、さらにえんえんと続くのだが、メリハリがあり、誰が何を思っての行動であるかが明快である。クレヨンで描かれた画用紙の絵1枚で、美空が思いを表明するところは大いなる定番だが、画用紙は雨に濡れてさらに美しい。

 この展開の先にあるものは、どう考えても生活保護費受給者になってしまう佐々木の姿だが、この映画は違う結末を用意する。その画面はとても静かで口数少ないが、言わんとすることがすべてわかる。その場面を用意した人はわたしたちがわかることを信じている。それは人間の再生する力を信じているのだと思うと、わたしはあらためて、この映画の良識に敬意を覚え、心を委ねたくなるのである。

◎2025年3月20日より公開

内海陽子プロフィール

1950年、東京都台東区生まれ。都立白鷗高校卒業後、三菱石油、百貨店松屋で事務職に従事。休みの日はほぼすべて映画鑑賞に費やす年月を経て、映画雑誌「キネマ旬報」に声をかけられ、1977年、「ニッポン個性派時代」というインタビューページのライターのひとりとしてスタート。この連載は同誌の読者賞を受賞し、「シネマ個性派ランド」(共著)として刊行された。1978年ころから、映画評論家として仕事を始めて現在に至る。(著者の近著はこちら

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