草彅剛の初々しさは輝く;『碁盤斬り』の精密な美しさ
『碁盤斬り』(2024・白石和彌監督)
映画評論家・内海陽子
信念や理想を堂々と掲げるというのは誰にでもできることではない。なぜならそれがみずからを窮地に追いやることがあるからだ。信念や理想を掲げた者はどこか危うさを抱え、ある種の弱者になる。この映画の主人公、清廉潔白な柳田格之進はそういう人物であり、演じる草彅剛は、格之進の立派な側面よりも、危うさ、脆弱さをより強く体現する。そう考えると、キャスティングそのものがこの映画の肝であり、サスペンスの要だとわかる。
柳田格之進(草彅剛)は彦根藩の進物番だったが、あるできごとがもとで追放され、娘のお絹(清原果耶)と二人で江戸の長屋暮らしだ。ある日、篆刻の仕事で得た一両を賭け碁で失い、またもや娘を落胆させるが、娘には父を守る気概がある。賭け碁の相手をした両替商、萬家源兵衛(國村隼)はやがて格之進の人格にほれ込み、中秋の名月の宴に父娘を招く。だが客が返しに来た50両が源兵衛のもとから消え、格之進に疑いがかかる。手代の弥吉(中川大志)に問われて激高した格之進は、娘を吉原遊郭のお庚(小泉今日子)に預けて50両を借りる。大晦日までに源兵衛の金が出てこなければ娘は売られることになる。
暗い話の割にテンポよく進むのは、洗練された古典落語がもとになっているからだろう。人格者がこうまで次々にあらぬ嫌疑をかけられるというのがどこかおかしく、頑固な表情を崩さない草彅剛が思いつめて直情径行で突っ走るのもおとなげない。とはいうものの大晦日という刻限が定められたことでいやおうなく緊張感が増し、手に汗握る。お庚の廓で下働きをしながら父を待つ、お絹の覚悟した横顔には哀しい気品があふれる。
じつはお絹ばかりか、多くの登場人物が格之進を守ろうとしているのではないかと思えてくる。源兵衛は消えた50両に頓着せず、行方をくらませた父娘を気遣い、金のことで騒ぎ立てた番頭以下の使用人を叱る。演じる國村隼は、源兵衛がただのケチではなく、真贋を見抜く目の持ち主だということをのびやかに表現する。彼の親戚筋で武家の血を引いている弥吉は、格之進を糺した自分の失態を恥じ、お絹への恋心に苦しむ。草彅剛と対峙して「武士に二言はないな」と言われた際の、中川大志の追い詰められた顔がまぬけに見えるのがいい。ここには格之進への畏怖と敬意がにじんでいる。
たったひとりの敵に見える柴田兵庫(斎藤工)との碁による決闘のクライマックスを見守ることになるのは、両国の賭け碁の会の主催者、長兵衛(市村正親)である。彼がすばやく格之進の「格」を見抜くのがうれしく、演じる市村正親が格之進に向けて刀を投げるシーンまでのひとつながりにすぐれた緊張感があって小気味よい。不運が続くようだけれど、格之進の人格は多くの人の心を捉えるのだということがよくわかる。彼の不運は早とちり、早飲み込みにあるのではないかと思えてくる。
白石和彌監督は『死刑にいたる病』(2022)でも熱のこもった素晴らしい演出を見せたが、このたびは時代劇ならではの精密な美しさを追求して新境地を見せる。冒頭シーンから江戸下町の情緒を品よく映し出し、廓の主、お庚を演じた小泉今日子がそのあだっぽさと貫禄で観客を物語世界に誘う。お庚が格之進に格別な好意を持っていることは明らかで、思えば格之進とお絹が何とか江戸で暮らしてこられたのは、彼女の支えがあったからではないかと思える。それをことさら表に出さないお庚の粋を、小泉今日子がさらりと見せる。
それにしても清廉潔白とはなんだろう。それは美しい姿勢のようだけれど、人を追い詰めることもあるということが浮き彫りになった。中年を過ぎてそれを知ることになった格之進は熟考し、みずからの生き方を修正するべく旅に出る。真の清廉潔白とは、自分の立場とともに他者の立場を思いやることから生まれるのではないだろうか。格之進の思考と実践の旅はようやく始まったところだ。演じる草彅剛の実直さ、初々しさは輝くばかりである。
◎5月17日より全国公開中
内海陽子プロフィール
1950年、東京都台東区生まれ。都立白鷗高校卒業後、三菱石油、百貨店松屋で事務職に従事。休みの日はほぼすべて映画鑑賞に費やす年月を経て、映画雑誌「キネマ旬報」に声をかけられ、1977年、「ニッポン個性派時代」というインタビューページのライターのひとりとしてスタート。この連載は同誌の読者賞を受賞し、「シネマ個性派ランド」(共著)として刊行された。1978年ころから、映画評論家として仕事を始めて現在に至る。(著者の近著はこちら)
『愛がなんだ』:悲しみとおかしみを包み込む上質なコートのような仕上がり
『バースデー・ワンダーランド』:情感とスピード感に満ちた贅沢なひととき
『家族にサルーテ! イスキア島は大騒動』:けっして自分の生き方を諦めない大人たちを描きぬく
『エリカ38』:浅田美代子が醸し出す途方に暮れた少女のおもかげ
『ファイティング・ダディ 怒りの除雪車』:本作が断然お薦め! 頑固一徹闘うジジイ
『DANCE WITH ME ダンス ウィズ ミー』:正常モードから異常モードへの転換センスのよさ
『記憶にございません!』:笑いのお座敷列車 中井貴一の演技が素敵!
RBGがまだ世間知らずだったとき:ルース・B・ギンズバーグの闘い
『劇場版おっさんずラブ LOVE or DEAD』常に新鮮で的確な田中圭のリアクション
千葉雄大の孤軍奮闘にハラハラ;『スマホを落としただけなのに 囚われの殺人鬼』
成田凌から飛び出す得体のしれないもの;ヨコハマ映画祭・助演男優賞受賞に寄せて
情熱あふれる歌・踊り・群舞;『ヲタクに恋は難しい』の高畑充希になり切る
生きていると否応なく生じる隙間;『街の上で』若葉竜也の「素朴」さに注目!
ヒロインを再現出させる魔術;ゼルウィガーの『ジュディ 虹の彼方に』
オフビートの笑いが楽しい;『デッド・ドント・ダイ』のビル・マーレイを見よ
現代によみがえる四人姉妹;『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』
夜にたたずむ男の見果てぬ夢;『一度も撃ってません』の石橋蓮司に映画館で会おう
長澤まさみの艶姿を見よ!;『コンフィデンスマン JP プリンセス編』は快作中の快作
どことなく滑稽でどことなく怖い;『星の子』にみる芦田愛菜の包容力
挑戦をやめない家族;『ヒトラーに盗られたうさぎ』でリフレッシュ
おらおらでひとりいぐも;田中裕子の『おらおらでひとりいぐも』
内海陽子「誇り高き者の確執、愛憎」;佐野亨編『リドリー・スコット』に寄稿しました
小粋な女性のサッカー・チーム;『クイーンズ・オブ・フィールド』で愉快になれる
娑婆は我慢の連続、でも空は広い;西川美和監督の『すばらしき世界』は温かく冷たい
感情を自在に操ることのできる演技者・水川あさみ;ヨコハマ映画祭・主演女優賞受賞によせて
最高の「嘘っぱち!」物語;『騙し絵の牙』の大泉洋は期待通りの全開
チャーミングな老人映画;『カムバック・トゥ・ハリウッド‼』を見逃すな
「打倒! まとも」が新しい世界を運んでくる;『まともじゃないのは君も一緒』の成田凌を深読みする
役所広司の醸し出す「歴史」;『峠 最後のサムライ』のぬくもり
異様な細部がすばらしい『ベルヴィル・ランデブー』;おばあちゃんの闘争は続く!
恋ゆえに渡る危ない橋『ファイナル・プラン』;リーアム・ニーソンからの「夢のギフト」
王道を行く人情コメディ;やっぱり笑える『明日に向かって笑え!』
「君は世界を守れ、俺は君を守る」;初々しい『少年の君』のチョウ・ドンユイ
漫画家夫婦の不倫ゲームを楽しむ;黒木華と柄本佑の『先生、私の隣に座っていただけませんか?』
未来についての勇気の物語;『愛のくだらない』の藤原麻希がみせる推進力
ムロツヨシの「愚直」な演技力;『マイ・ダディ』の聖なる滑稽さ
ジェイソン・ステイサムの暗く鈍い輝き;『キャッシュトラック』の「悪役」が魅せる
底なし沼に足を踏み入れたヒロイン;『アンテベラム』の終わらない感情
早すぎる時間の中での成長;『オールド』にみるシャマラン監督の新境地
二人はともに優しい女房のよう;西島秀俊と内野聖陽の『劇場版 きのう何食べた?』
おどおどしつつも男の意気地が光る!;中谷美紀と田中圭の『総理の夫』
生き生きとした幸福のヒント;加賀まりこが母を演じる『梅切らぬバカ』
前進する者への確かなエール;リーアム・ニーソンの『マークスマン』
小さな人間にも偉大なことはできる;妻の仇討ち物語『ライダーズ・オブ・ジャスティス』
AIを超える人間の誠意;『ブラックボックス 音声分析捜査』の最後に残る希望とは
体全体で感じる音楽の喜び;『CODA あいのうた』の家族たち
胸がすく女殺し屋の戦闘シーン;『ガンパウダー・ミルクシェイク』から目を離すな!
臨床心理士が逆に心を解読される恐怖;『カウンセラー』がみせる短編映画の切れ味
深い思いやりをもって吸い付くように伴走する笠松則通の眼;ヨコハマ映画祭・撮影賞によせて
肩の凝らない、いいセーター;今泉力哉監督の『猫は逃げた』は恋のトラブルの高みの見物
隠し味が効いてる『ゴヤの名画と優しい泥棒』;実話の映画化はやっぱり喜劇が最高だ!
田中圭の『女子校生に殺されたい』;目当ての少女を見つけ出せ!
生きることはミステリアス;小林聡美の『ツユクサ』がもつ苦味とおかしみ
奇妙な悲しみをたたえる阿部サダヲが怖い;『死刑にいたる病』が残す余韻
「少女」を演じる宮本信子が温かい;『メタモルフォーゼの縁側』は生きて行く活力を伝える
鳥肌が立つほどの軽やかさと上品さ;中井貴一の『大河への道』は裏切らない
あの世への優雅なダンス;『スワンソング』の心地よい風に吹かれて
人生における美しい瞬間;『セイント・フランシス』の小さな体験
「イエス」で答え「アンド」で繋げる未来;『もうひとつのことば』の初々しい二人
永野芽郁のバンカラ女子がいい;『マイ・ブロークン・マリコ』の確かな手ごたえ
『ドライビング・バニー』は振り返らない:アンチヒーローの正義
正念場を迎えた4つのカップル;『もっと超越した所へ。』のいい加減で深刻な情熱
男がひとりで食べるフルーツパフェの味;『窓辺にて』の嫉妬とおかしみ
生きる上で幸福は花火のよう;『夜、鳥たちが啼く』の晴れやかな世界への出発
阿部サダヲの『アイ・アム まきもと』は温かい;死を通じて人と繋がる静かな高揚感
世界は美しさに満ちている;カンバーバッチの『ルイス・ウェイン 生涯愛した妻とネコ』
弱虫だから輝く『雑魚どもよ、大志を抱け!』;内海陽子が足立紳監督の魅力と「誕生秘話」を語る
悩んで悩んで悩みぬく竹野内豊と黒木華;『イチケイのカラス』は上質なエンターテインメント
永遠性を獲得した異形の少女;『エスター ファースト・キル』が暴く家族の狂気
『Winny』は人生のドラマ;東出昌大という俳優の復活をみる
リーアム・ニーソンの『MEMORY メモリー』:殺し屋とFBI捜査官の意外な連帯感が楽しい
手ごたえのある人生を勝ち取る;『ウィ・シェフ!』の深い味わい
『テノール! 人生はハーモニー』の愛と悲しみ;思う相手に心が届く瞬間
「ちきゅう」はどこまでも繋がっている;『せかいのおきく』にある強い向日性
『釜石ラーメン物語』はチャーミングでハッピー;闘い続ける姉妹が発散する活力
父と息子の対決を包み込むあたたかい風;『ふたりのマエストロ』の颯爽とした女たち
『高野豆腐店の春』は男心のサスペンス;藤竜也は女たちを輝かせる
孤独・情熱そして生きる意欲;人間の深みを描く『ダンサー イン Paris』
はちゃめちゃな闘いぶりに体温が上がる;『SISU/シス 不死身の男』は屈しない精神の映画
『LONESOME VACATION ロンサムバケーション』の「行間」を読む楽しさ;自分の未来を発見する物語
女は被害者ではなく加害者がふさわしい;『私がやりました』の魅惑的なアジテーション
『ショータイム』は哀歓に満ちた奇跡の物語;すべての人生は敗者復活戦だ
足立紳監督『春よ来い、マジで来い』を語る;内海陽子が迫る最新小説と『ブギウギ』の背景
最後まで観客を振り回す見事な展開;『TALK TO ME トーク・トゥ・ミー』で味わう恐怖と謎とき
風格ある江口のりこの演技力;『あまろっく』は「失意」からの脱出物語
ムロツヨシが大活躍の『身代わり忠臣蔵』;多彩なキャストで笑わせる正月映画の楽しさ
リュック・ベッソンの『DOGMAN ドッグマン』;すさまじい殺戮と深い癒しの物語
黒木華と岸井ゆきの――大女優への道;内海陽子が論じるヨコハマ映画祭主演女優賞の2人
柔軟なエネルギーの発露とまごころ・目黒蓮;ヨコハマ映画祭・最優秀新人賞によせて
殺人犯と少年たちの熾烈な心理戦;『ゴールド・ボーイ』は果てしない愛憎の迷路
恋は天下の回りもの『ブルックリンでオペラを』;人生は意表を突く喜びに満ちている
チホとイルヨンの恋物語が胸に迫る!;『マイ・スイート・ハニー』はジワリと泣かせてくれるコメディ
市原隼人の『劇場版 おいしい給食 Road to イカメシ』を見よ!;給食をめぐる「一期一会」の戦いは続く
好きよりももっと好きな二人の関係;『からかい上手な高木さん:は十年かけて育てた初恋の物語