世界は美しさに満ちている;カンバーバッチの『ルイス・ウェイン 生涯愛した妻とネコ』

『ルイス・ウェイン 生涯愛した妻とネコ』(2021・ウィル・シャープ監督)

 映画評論家・内海陽子

 耳になじんでいた歌が、同じ歌手でもまるで違う歌のように聞こえることがあるように、何度も見聞きした物語が、今まで知らなかった物語のように思えることがある。物ごとにはいろいろなアプローチがあるということはわかっているつもりだが、『ルイス・ウェイン 生涯愛した妻とネコ』のアプローチは、予想を楽しく裏切るものだった。イギリスのイラストレーターで画家のルイス・ウェインと、彼の最愛の妻と愛する猫の実話となれば、涙なしには見られない愛らしさと悲しみに満ちているはずなのに、この映画のアプローチはスマートだが風変わりだ。抱こうとするとするりと逃げる猫のように。

 1881年。父を亡くし、母と5人の妹がいる長男のルイス(ベネディクト・カンバーバッチ)は、ブルジョワとはいえ裕福ではなく、家族を養わなければならない。彼は多趣味で、音楽家や発明家に憧れ、ボクシングにも挑んでいるが、動物のイラストを描くのが稼ぐには一番だ。しっかり者の長女キャロライン(アンドレア・ライズボロー)は、生活能力のない母に変わって一家を取り仕切り、幼い妹3人のために家庭教師エミリー(クレア・フォイ)を雇う。ルイスはすぐに彼女に魅せられ、二人は恋に落ちる。当時、ブルジョワと家庭教師は不釣り合いで、家族も猛反対だが、二人は意志を貫く。

 観劇をしたことのないエミリーと妹たちを連れて、ルイスがシェイクスピアの「テンペスト」を観に行くシーンがある。水に溺れる悪夢をよく見るルイスが、途中で耐えきれなくなって男子トイレに駆け込むと、エミリーが追ってくる。そこが男子トイレだとわかっていても、二人は衝動を抑えきれずにキスをする。当時の人間でなくとも奇矯な振る舞いに見えるが、たぶん、二人はばつぐんに波長が合うのだろう。「人がどう思おうとかまわない」。二人の前には幸福があるだけと思えたが、まもなくエミリーが不治の病に冒された。

 カップルのどちらかが闘病するドラマというのは数限りなくあるが、この映画は涙を誘うような展開を断じてとらない。それよりも、ルイスとエミリーの決意を息せき切って伝える。「君が世界を美しくした、温かくてやさしい場所に」とルイスが言えば「わたしが美しくしたんじゃない、世界は美しい、あなたが教えてくれた」とエミリーが返す。生き続けることの価値をルイスに精一杯教えることが、家庭教師という道を選んだエミリーのなすべきことであり、それをしっかり受け止めることが、ルイスのなすべきことである。エミリーの最期を、愛猫ピーターの静かな動きとルイスの表情で知らせる描写も余韻が深い。

 十分に名の通ったベネディクト・カンバーバッチは、しばしば思い切った役どころに挑む。今回は軽い緊張感が快い。ルイスは妻亡き後の厳しい世界に向き合い、今まで見出されなかった猫の滑稽さやさびしさ、狡さや頼もしさを、独特の作風で大量に生み出す。両手を使ってすばやく描きあげる姿は狂気じみているが、彼は世界から振り落とされないために描き続ける。享楽的な浪費家で、一家の家計は火の車だが、彼には正常な経済観念がない。妹たちは働くことをせず、結婚をせず、不満だらけで年を取っていく。エミリーが去った世界は以前にも増して恐ろしい場所になっているが、ルイスは愛猫ピーターを心の支えに、世界を見すえる。

 ナレーションを担当するのは『女王陛下のお気に入り』(2018)でアカデミー賞主演女優賞を受賞したオリヴィア・コールマンで、毒のある絵本をさらりと読むように物語をガイドする。ルイスの妹のひとりは統合失調症と診断され、ルイスにもその傾向があることが次第に明らかになる。彼の描く絵にその兆候が如実に表れたことが、猫の万華鏡のように表現されるところはめまいがするが、彼の心の変化と躍動を存分に味わうことができる。最下層の人々のための病院に入れられたルイスに救いの手が差し伸べられるところは、エミリーの温かなまなざしが感じられ、それはきわめて美しいエンディングにつながる。

 統合失調症の症状に苦しむルイスの脳裏に何度も繰り返しひらめくのはエミリーの励ましの言葉だ。若くして病に倒れながら、ずばぬけた知性を失わない女性とめぐりあえたことがルイスの人生の光になったのだろう。ルイスが愛猫ピーターの死を嘆く姿は滑稽なほど強調され、エミリーにつながる手がかりを失ったという、彼の厳しい現実を観客に思い知らせる。人は少しずつ手がかりを失っていく。それでも必死に手がかりを探り、ルイスは「ぼくは未来でエミリーを思い出せる」と自分に言い聞かせる。

わたしが最も好きなエミリーの言葉はこれだ。「世界は美しさに満ちている、それを捉えるのよ」。エミリーは聖母のようだ。ルイスは聖母に抱かれるように、またエミリーと結ばれるのである。

◎12月1日より公開

内海陽子プロフィール

1950年、東京都台東区生まれ。都立白鷗高校卒業後、三菱石油、百貨店松屋で事務職に従事。休みの日はほぼすべて映画鑑賞に費やす年月を経て、映画雑誌「キネマ旬報」に声をかけられ、1977年、「ニッポン個性派時代」というインタビューページのライターのひとりとしてスタート。この連載は同誌の読者賞を受賞し、「シネマ個性派ランド」(共著)として刊行された。1978年ころから、映画評論家として仕事を始めて現在に至る。(著者の近著はこちら

 

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