男がひとりで食べるフルーツパフェの味；『窓辺にて』の嫉妬とおかしみ

『窓辺にて』（2022・今泉力哉監督）

　映画評論家・内海陽子

　この映画の主人公が大事に抱える悩みは「なぜ妻の浮気に嫉妬しないのだろうか」である。ふ～ん、そういう人もいるのか、で終わらせてしまえばそれまでのことだが、多くの人にとってこの主人公は謎の存在だろう。謎どころか「まるでSFだ」と吐き捨てるように嫌悪を表わす若い登場人物もいる。嫉妬というテーマに恋と文学を絡ませて穏やかに思考し、対話する主人公を稲垣吾郎が機嫌よく演じる。まことに俗っぽい展開ながら、感じのいい哲学者の瞑想につきあっているような心地になる。

　かつては作家を志したが、今はフリーライターの市川（稲垣吾郎）は、編集の仕事をする妻・紗衣（中村ゆり）が人気作家の荒川円（佐々木詩音）と浮気していることを知っている。だがその事実よりも嫉妬心が湧き上がらないことに動揺し、紗衣と別れた方がいいのかどうか考えている。ある日、若くして文学賞を受賞した久保留亜（玉城ティナ）の記者会見に出席し、受賞作「ラ・フランス」について丁寧に読み込んだことがわかる質問を発して久保の眼鏡にかなう。彼女と個人的交流が始まった市川は、小説のモデルになった、彼女の恋人・優二（倉悠貴）や伯父に会う。小説を書けなくなった自分について、妻の浮気に嫉妬しない自分について、考えを深めているようである。

　友人の正嗣（若葉竜也）と妻のゆきの（志田未来）に“嫉妬しない自分”を打ち明けると、特にゆきのが激しく反応する。というのも、彼女は夫が浮気していることに気づいており、嫉妬に苦しんでいるからだ。浮気相手のなつ（穂志もえか）は正嗣と一緒になりたいと望んでいるが、彼が家庭を大事にしていることも知っている。わかりやすいモテ男の精神構造を、若葉竜也が少しだらしなく演じる。彼は『愛がなんだ』（2019）で、好きな女に振り回される男を好演して観客の同情を買ったので、この映画のありふれた彼が妙に微笑ましい。

　あるとき市川は久保に呼び出されてラブホテルの一室に入る。むろん、艶っぽい事態が待ち受けるわけはなく、市川を待っていたのは恋にくじけた久保のカウンセラーのような役どころだ。延々と会話を交わすのに最も不似合いな場所で、それでも市川はさほど迷惑そうでもなく久保につきあう。時間を持て余すことを予期した彼女が、トランプを用意してきたところが少し色っぽい。若い娘なりのはにかみと気遣い、市川への甘えが混然となっているが、彼女の恋は若々しく健全だなあと思う。これは私の思いだが、市川の思いとさほどずれていないだろう。

　そこで考えるのは、市川は生きる気力を失いつつあるということだ。彼が昔の恋人のことを書いた小説で評価されたことを、妻で編集者の紗衣はよく覚えている。彼が書かなくなった（書けなくなった）のは、彼の愛情が自分に向けられていないからだと考えるのも自然である。つまり、紗衣は夫の過去に嫉妬している。この嫉妬はまことに不毛で、それが夫婦の資質の違いと溝の深さをあらわにする。男女間の嫉妬に限らず、何かに嫉妬するというのは生命力の表れであると捉えることができる。市川は妻の浮気に嫉妬しないだけでなく、若くして文学賞を受賞した久保にも嫉妬しない。荒川が紗衣とのできごとを小説にしたことにも、久保が優二との痴話げんかを小説にしたことにも、嫉妬しない。嫉妬するという苦しみ＝生きる苦悩から、遠く逃れてしまったのではないかと思う。

　喫茶店で市川と向かい合った久保がフルーツパフェを頼むシーンがある。コーヒーの値段に比べてフルーツパフェのほうがお得だという若い娘らしい理由だが、そういう風に考えること自体が生命力の表れである。小説を書くという行為は、才能もさることながら、貪欲な生命力がなければ続けていくことはできない。荒川円と久保留亜は、そういう生命力を維持しようともがいているのであり、残念ながら、何事につけ嫉妬しない市川茂巳は小説家としても男としても生命力が薄れつつあるのだ。

　この映画は、ものを書く人、創る人から嫉妬心を取り除いたらどうなるかという実験ではないだろうか。それは、つまるところ、生きる上で嫉妬心を失くしてしまったらどうなるかという実験のようなものだろう。市川の離婚届に友人として判を押す正嗣が涙をこぼすシーンがあるが、この涙は生きている証のような涙で、静かにそれを見る市川はずっと離れた場所にいる存在なのだ。それこそ彼は本当にＳFのような世界に生きているのかもしれない。ただし、それが不幸であるとは限らない。エンディング、彼がひとりで食べるフルーツパフェはどんな味がするだろう。ひどくおいしそうに感じられる。

◎２０２２年１１月４日より公開

内海陽子プロフィール

１９５０年、東京都台東区生まれ。都立白鷗高校卒業後、三菱石油、百貨店松屋で事務職に従事。休みの日はほぼすべて映画鑑賞に費やす年月を経て、映画雑誌「キネマ旬報」に声をかけられ、１９７７年、「ニッポン個性派時代」というインタビューページのライターのひとりとしてスタート。この連載は同誌の読者賞を受賞し、「シネマ個性派ランド」（共著）として刊行された。１９７８年ころから、映画評論家として仕事を始めて現在に至る。（著者の近著はこちら）