「イエス」で答えて「アンド」で繋げる未来;『もうひとつのことば』の初々しい二人

『もうひとつのことば』(2021・堤真矢監督)

 映画評論家・内海陽子

「このご時世にちょっと英語ができたって、わたしにできるのはカフェで嘘つくだけ」とヒロインが慨嘆するシーンがある。この言葉にほっとしたあなたは、英語が得意ではないだろう。日本人で英語が得意な人は多くないから、ほとんどの人はこの映画に好感を覚えるはずだ。“ワンコイン英会話カフェ”で知り合った男女のささやかな物語は、英語ができようができまいが、他人と関わりを持とうとする人をチャーミングな笑顔で応援する。

 500円で思う存分英会話ができるというカフェで、健二(藤田晃輔)はミキ(菊池真琴)との会話を楽しんだ。帰る方向をむりやり彼女に合わせようとしたのは、もっと会話したいと思ったからだが、彼女のほうはそう思っていない。それでも次のチャンスは訪れ、「お互いの人生に立ち入らない」、「日本語では嘘をつかない」というルールを決めて距離のある関係を続けることになる。しかし嘘をつかないようにすれば、お互いの人生に立ち入ってしまうことになる、という矛盾に最初は二人とも気づかない。

 二人がこの矛盾に気づくきっかけになるのが、浅草のカフェで知り合った山田(中山利一)である。観光ガイドをしているがコロナ禍でひまじんの彼は、早とちりで強引で愉快な奴で初めから二人をカップルとみなす。相手のセリフにすべて“イエス”で応じて話を広げるインプロビゼーションをしようと約束した健二とミキは、まるでキューピッドの罠にかかったかのように、互いに好意と想像力を深めてしまう。こういう場合、どちらかが一足飛びに現実の未来を夢想して行動を起こすと、それがもういっぽうを不快にする。

 山田に連れられて行った日本料理店で愉快な時を過ごし、ますます意気投合し、エールを送られて店を出たからには、もう付き合っているも同然ではないか、と男が思うのも無理はない。だが、ことはそう簡単ではない。女のほうには立ち入ってもらいたくない事情がある。ここで、嘘と駆け引きで盛り上がる様子を楽しんでいた観客も現実に引き戻される。英会話でペラペラと嘘を並べても罪はないが、日本語で問い詰められ、思いを吐露されると、妙な罪悪感を覚える。当たり前だが、自分が生きている場所で使う言葉には責任が伴う。

 冒頭のヒロインの慨嘆には理由がある。彼女はリモートワークに忙しい同居人との会話で「劣等感を持たないで」と言われ、英語ができることで抱いていた優越感をも否定されて傷ついている。つまり自己嫌悪に囚われている。やりがいを求めて転職を志し、自分をもっと高めたいと思うのはいいことのはずなのに、自尊心をくじかれるだけの日々になってしまった。その憂さの晴らしどころが“ワンコイン英会話カフェ”だったわけで、他の人もきっと似たような状況にあるのだろう。

 思えば、そのことを最も率直に表したのは愉快な山田だけである。彼の言うことには説得力がある。豊富な経験に基づく彼の見立てには未来がある。健二とミキがそう思ったかどうかはわからないが、心のどこかで、山田にまた導いてもらいたいという気持ちが働いたからこそ、二人は彼と再会することができたのだろう。後半の展開は映画のご都合主義ではなく、人生の必然である。必然として山田は登場し、再びいたずらっ子のように現れるのだ。

 浅草・雷門前での記念撮影では、写されることを避けてシャッターを切る側に回ったミキが、エンディングでは健二と二人、まさにナイスカップルとして相手のカメラに納まる。彼女の逡巡は消え、真っ直ぐに進むことを決意したからである。「yes」と答えて始まり「and」と繋げる未来はどうなるのだろう。うまくいかないかもしれないが、まずは進んでみよう。ラストシーンには二人のそんな恥じらいが感じられて、とても初々しい。こういう映画にこそ、続編を期待したいのだ。

◎2022年7月22日より公開

内海陽子プロフィール

1950年、東京都台東区生まれ。都立白鷗高校卒業後、三菱石油、百貨店松屋で事務職に従事。休みの日はほぼすべて映画鑑賞に費やす年月を経て、映画雑誌「キネマ旬報」に声をかけられ、1977年、「ニッポン個性派時代」というインタビューページのライターのひとりとしてスタート。この連載は同誌の読者賞を受賞し、「シネマ個性派ランド」(共著)として刊行された。1978年ころから、映画評論家として仕事を始めて現在に至る。(著者の近著はこちら

 

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