老いてにぎやかな人生;田中裕子の『おらおらでひとりいぐも』
『おらおらでひとりいぐも』(2020・沖田修一監督)
映画評論家・内海陽子
年を重ねることはいやおうなく孤独に向き合うことだろうが、その孤独がえらくうるさい場合がある。この映画のヒロイン桃子(田中裕子)は、ごく普通に身体が衰え、未来にはあてもないが、胸の奥深くに潜む好奇心はいまも健在だ。太古からの生き物の歴史に興味があり、図書館通いを続けている。そんなある日、3人の男子が表れ「おら、おめだ」と故郷の言葉で言い立てるので仰天するが、彼女のなかには一人の女の長い歴史が詰まっているのだから、そういうこともあり得るだろう。「寂しさ3人組」は桃子を元気づけようと、やたらはしゃぐ。うるさいと思うが、それが自分だというならしかたがない。
あえて言えば、桃子は躍動感に満ちているのである。だからこそ田中裕子が演じるのだろう。白髪も毛糸のちゃんちゃんこもなんとなくモダンで可愛らしく、少女のようだが、男子3人を生み出すので少年のようにも見える。腰が痛むと言って毎朝シップを貼るが、その貼り方にも勢いとリズムがあって、とても身体が衰えているようには見えない。この映画は、老女の日常をリアルに描くものではなく、老いていくことの中にある新しい可能性や新しい不思議の発見を描くものだということがわかってくる。
うるさいのは過去の記憶も同じだ。桃子(蒼井優)は見合い結婚を拒否し、故郷の岩手県遠野を飛び出し、東京の蕎麦屋に最初の働き口を見つけた。やがて夫になる周造(東出昌大)に会い、結婚して男女二人の子を育て上げたが、すでに夫は亡くなり、子どもとも疎遠になった。しかし記憶はどんどんあふれ出し、かつて「おらは新しい人だ、これからの女だ」と意気込んでいた自分が平凡な主婦として晩年を迎えたことに、胸がチクリと痛む。「周造の死に一点のよろこびがあった。それがおらだ」という言葉は、彼女の明晰さを語るとともに、愛情と自我の永遠の対決を感じさせる。
むろん、後悔も失敗もある。娘(田畑智子)が手みやげをたくさん抱えて訪ねてくれば「今度はなんだ?」と桃子は身構える。案の定、息子に絵の才能があるから塾に通わせる、と金の無心だ。返事を濁せば、不機嫌になって冷蔵庫の中の物をごっそりさらって帰る。その直後、桃子が冷蔵庫から取り出した缶ビールをごくごく飲む様子に、滑稽ながら大きなストレスがうかがえ、母娘の関係の微妙さがひりひりするほど伝わる。たいていの母親は、息子に比べて娘に厳しいと聞くが、桃子の場合は、かつて娘だった自分の果たせなかった体験と、自分の娘への愛情がちょっとねじれてしまったようだ。このときは、さすがに恐れをなしたか「寂しさ3人組」はひっそりしている。
なにはともあれ、田中裕子が映画の中心にどっかり居座っているのは気持ちがいい。濱田岳、宮藤官九郎、青木崇高が演じる「寂しさ3人組」が、あれやこれやにぎやかしをするが、文字の世界ならともかく、映像世界においてはさほどの効果を上げているとも思えない。田中裕子演じる桃子は、朝、寝床から身をはがすように起きて、目玉焼きを焼いて、トーストをかじる、という一連の動作を繰り返すが、わたしはその様子を見ていて飽きることがない。あ、今朝はフライパンに塩、胡椒ではなく、醤油をかけたな、とか、今日の目玉焼きは双子だったなとか、ちょっとした日々の変化を知るのが楽しくなる。わたしも寂しさ組の一員になったような気になる。つまり寂しさ組は役に立たない存在でいいのである。
人は若い時でもときどき年寄りになる。むっつりしたり、不貞腐れたり、電車で居眠りしたり、物忘れしたり、詐欺に遭ったりする。それは、生きていくということがいかに大仕事であるかと言うことの証拠である。年を重ねるということは、膨大な思い出を反芻しながら、楽しんだり、悔んだり、諦めたりすることだろうが、それでも意地ある人間は少しずつ前進する。桃子の向学心に興味を覚えたらしい図書館職員(鷲尾真知子)が、彼女をしきりに習い事に誘う。大正琴、太極拳までは断っていた桃子が、ラージボールを使う卓球への誘いを受けるのがおかしいし、なんだか必然のようにも思う。
ここでようやく、桃子は図書館職員の寂しさに思い至ったのではないだろうか。ひょっとすると図書館職員の中にも「寂しさ3人組」がいて、彼らが桃子を誘うようにそそのかしていたのかもしれない。桃子はやっと他者の寂しさにも気づいた。老いるということは閉じることではない。生命力のある限り、きっと人はやむを得ず進んでいくのだ。
◎2020年11月6日より公開
内海陽子プロフィール
1950年、東京都台東区生まれ。都立白鷗高校卒業後、三菱石油、百貨店松屋で事務職に従事。休みの日はほぼすべて映画鑑賞に費やす年月を経て、映画雑誌「キネマ旬報」に声をかけられ、1977年、「ニッポン個性派時代」というインタビューページのライターのひとりとしてスタート。この連載は同誌の読者賞を受賞し、「シネマ個性派ランド」(共著)として刊行された。1978年ころから、映画評論家として仕事を始めて現在に至る。(著者の近著はこちら)
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