「博打には勝たなければならない」;『喝采』は大女優の最後の戦い

『喝采』(2024・マイケル・クリストファー監督)

 映画評論家・内海陽子

「幻をつくる場所で生きてきた、でもつくるのは真実よ」。

これほどの自負心を持つ女優が、舞台と現実の境が判然としなくなる状態に陥る。演じるということを突き詰めていくと、こういう状態になっても少しも不思議ではない。むしろ、いつでも素の状態に戻れる人はまだまだ本物の演技者とは言えないのではないか。ジェシカ・ラングの不安におののく表情を観ていると、老いの哀愁というよりも秀でた才能を持つ者のエゴが強烈に感じられて、軽いカタルシスを覚える。

 喝采を浴びて来た舞台女優リリアン・ホール(ジェシカ・ラング)は、代表作「桜の園」の稽古に励んでいる。新進の演出家デヴィッド(ジェシー・ウィリアムズ)との顔合わせが実現、今回のテーマは“アングラと風格の出会い”だ。しかしリリアンはセリフが出てこないことがあり、現実生活に舞台上の設定がおおいかぶさるようなこともふえ、自分の身に異変が起こっていると気づく。周囲もそれに気づくが、よい手立てはなく、プロデューサーは自分が贔屓にする新人女優の起用を画策している。

 リリアンの身を案じるデヴィッドの勧めで、彼女は医師の診察を受けることになる。三つの単語を覚えるように言われ、後でその単語を質問されてもうまく思い出せない。紙を半分に折っていくように言われてもうまく折れない。精密検査の結果、レビー小体型認知症と診断される。恐怖でくずおれそうになるが、彼女は舞台の開幕まで、それを隠し通そうと決意する。長年、彼女を補佐してきたイーディス(キャシー・ベイツ)に気づかれても意思を曲げない。だが隠しおおせようもないことが次々に明らかになる。

 リリアンには、売れない画家と結婚している一人娘マーガレット(リリー・レーブ)がいて、生活が苦しく母をあてにしている。それをうとましく思う気持ちと、認知症を隠したい気持ちと告げたい気持ちとが一緒くたになり、娘の誤解を招く。大女優の家庭でも一般の家庭でも少しも変わらない人間関係のやっかいさ。認知症という病が招く事態は複雑さを増し、不幸しか招かないのではないかと思うほどだが、そうでもない。

 レビー小体型認知症の症状には、幻視や幻聴がある。リリアンは亡き夫の姿をたびたび見るようになり、それは、今の自分が置かれている状況を励ますようでもある。隣に住む男、タイ(ピアース・ブロスナン)は幻視かどうかはっきりしないのだが、リリアンと恋愛関係にあったことがあるような男の雰囲気で、彼女は夢見るような表情をする。ピアース・ブロスナンが昔のイメージをまったく失わず、粋な風情で彼女と軽口をたたくのが微笑ましい。これも幻視かどうかわからないが、そっとキスする場面など実にロマンティックだ。

 そうこうするうちにも事態は進む。後半、断然輝き出すのは補佐役イーディスを演じるキャシー・ベイツで、目立たない役かと思っていたら、金髪を輝かせ、真剣な表情でリリアンを盛り立てる。その姿がえらく美しくユーモラスで、この物語が退屈な悲劇に陥りそうになるのを必死に支えているようでもある。リリアンが「娘よりイーディスを選んだの?」とマーガレットに問い詰められるシーンもあり、女同士の絆のエロティシズムが漂う。

「重い石を首にぶら下げているの、でも、その石なしでは生きられない」とリリアンが言う。自分の選んだ道を自負する者なら、誰もがそう思うのだろう。それがはたして世の中に通用するかどうか、いつまで通用するのか、いつまで喝采を浴びることができるのか。そういう恐怖と闘いながら活きてきたリリアン・ホールという大女優の終盤は、まるで大博打のようだ。博打と知っている者がいようがいまいが、博打には勝たなければならない。

 わたしたち一般人の人生も、少なからず博打である。いわゆるギャンブルというものはだいたい負けるのが相場だが、人生をかけた博打はそうとは限らない。そして何をもって勝ちとするか負けとするかにおいて、人それぞれ、価値観は際限なく多様だ。強いて言うなら、勝ちは幸せになることだろう。幸せとは何かと問われたら、それくらい自分で定めろよと言いたいが、自分が得た大事なものが好きな人たちに共有されることである。好きな人は少なくてもかまわない、たった一人でもかまわない。そういう覚悟を持っていたいものだ。

◎2026年1月9日より公開

内海陽子プロフィール

1950年、東京都台東区生まれ。都立白鷗高校卒業後、三菱石油、百貨店松屋で事務職に従事。休みの日はほぼすべて映画鑑賞に費やす年月を経て、映画雑誌「キネマ旬報」に声をかけられ、1977年、「ニッポン個性派時代」というインタビューページのライターのひとりとしてスタート。この連載は同誌の読者賞を受賞し、「シネマ個性派ランド」(共著)として刊行された。1978年ころから、映画評論家として仕事を始めて現在に至る。(著者の近著はこちら

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