美しいピアノ曲のような『アイミタガイ』;たがいの思いやりが未来をひらく
『アイミタガイ』(2024・草野翔吾監督)
映画評論家・内海陽子
「いい人間しか出てこない小説は嘘くさいと思っていました、でも今はそういうものを信じたい」と気持ちを振り絞るようにして父親は言う。演じるのは田口トモロヲである。あらゆる役を演じることのできる名優にして怪優が、いつも同じ時刻の電車に乗って出勤し、同じ時刻の電車に乗って帰宅する実直なサラリーマン・優作を、風にさらされたような表情で演じる。彼はカメラマンの愛娘を交通事故で亡くし、娘が遺した保険金をある施設に寄付する。冒頭のセリフは、使いみちを詳細に報告するという所長に言う、断りの言葉だ。
物語のヒロインはウェディングプランナーの梓(黒木華)。中学生時代からの親友で意欲的に生きていたカメラマンの叶海(藤間爽子)が海外で亡くなり、梓は呆けたような気持ちでいる。ウェディングプランナーだというのに結婚願望がない。両親の離婚に伴うさまざまな出来事が、交際している澄人(中村蒼)と踏み込んだ関係になるのを遠ざけているらしい。明るくて気のいい澄人は、親友の死のショックから立ち直れない梓を見守っているが、なにか行動を起こさなければならないとも思っている。
梓の叔母・範子(安藤玉恵)は介護ヘルパーをしており、気難しい老婦人・こみち(草笛光子)を担当することになって緊張している。ピアノが置いてある部屋に入って注意され、それを梓に伝えると、ぜひ紹介してほしいと懇願される。結婚式場で金婚式を行う高齢のカップルには、年配のピアノ奏者が好まれるのだ。叔母と一緒に彼女の家を訪れたとき、梓の記憶を刺激するものがある。いじめに遭ってつらかった時、助けてくれた叶海に連れられて来たこの家の裏庭で、彼女の弾くピアノ曲「家路」を聴いたことがあるのだ。
梓はそういう日々の小さなことがらを、もう読む者はいないのを承知で叶海の携帯電話にメールする。彼女が生きていたときと同じように語りたい。そういう形で彼女を生かしておきたい。さびしい日記のようなそれらは、叶海の携帯を処分できないでいる母・朋子(西田尚美)に届く。まもなくそれらのメールは既読になる。このじわじわと進む感情の関係にスリルがある。泣いたり叫んだりする激しい感情の吐露はないのに、ないからこそ、両者の高まる感情の波に心揺さぶられる。
誰かと誰かが繋がっている。もしくは気がつかないまますれ違っている。それはきっと縁があるからだ。その縁はいつか明らかになる。それは希望へとつながるだろうことを、この映画は丁寧にそっと励ますように語り続ける。映画のタイトル「アイミタガイ」の意味を説明するのは梓の祖母・綾子(風吹ジュン)だ。若くてものを知らない梓と澄人に、人と人は気づかないところで助け合っている、お互いさまという意味だと、あたたかな笑顔で説明する。年配の役が多くなってきた風吹ジュンが、ここでも最良の物腰で観客をもてなす。
冒頭の発言の前、施設に向かうタクシーの中で叶海の両親は、タクシー運転士の名について尋ね、娘もまたこの運転士のタクシーに乗ったことを知る。「(今日は)一緒に来たのね」と夫との間のシートを触る母・朋子の慎ましやかなしぐさがまことにリアルだ。人は亡き人をこんなふうに思い出し、こんなふうに存在させる。そう実感させるハイライトシーンだが、運転士には何も説明せず、彼は静かにそれを理解する。ここにも思いやりにあふれた「アイミタガイ」がある。
「アイミタガイ」。この言葉がカタカナで表記されるのは、もはや忘れられた言葉になってしまっているせいだろう。遠い昔の渋い言い回しに、鮮やかな感情が込められている。その感情を共有できる人と人が穏やかに円環をなし、未来へと進んでいく。俳優たちの演技は、誰かがことさらに突出するようなことはなく、誰もがそれぞれの持ち場で最善を尽くす。全体がやさしく美しいピアノ曲のようである。
艶やかな青紫のドレスをまとい、美しい背中を大胆に見せ、晴れの席でピアノを弾く草笛光子に圧倒されるが、エンディング、荒木一郎の「夜明けのマイウェイ」を澄んだ声で歌う黒木華も素晴らしい。一歩前へ出ることが苦手だった娘が、親友の死によっていくつもの「アイミタガイ」に遭い、ついには、信頼の証に、思い切って後ろにいる相手に向かって倒れるという行動を選ぶまでになる。誰にも負けないくらい幸福になってもらいたい。
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内海陽子プロフィール
1950年、東京都台東区生まれ。都立白鷗高校卒業後、三菱石油、百貨店松屋で事務職に従事。休みの日はほぼすべて映画鑑賞に費やす年月を経て、映画雑誌「キネマ旬報」に声をかけられ、1977年、「ニッポン個性派時代」というインタビューページのライターのひとりとしてスタート。この連載は同誌の読者賞を受賞し、「シネマ個性派ランド」(共著)として刊行された。1978年ころから、映画評論家として仕事を始めて現在に至る。(著者の近著はこちら)
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