床下で発見した「妄想」の正体;江口のりこの『愛に乱暴』にある怖ろしさ
『愛に乱暴』(2024・森ガキ侑大監督)
映画評論家・内海陽子
江口のりこ演じる主婦が、夫の態度や姑の存在に神経をとがらせているという始まりである。この設定だけでにわかに胸が高鳴る。そういう平凡な女のよくある状況を平然と眺める女王のような存在として、わたしは江口のりこを認識しているからだ。その落差。普通の女が演じれば日常的なふるまいが、江口のりこが演じると非日常のように感じられる。何が起こってもおかしくないし、何も起こらなかったとしてもうっすら怖ろしい。
かつては有能なキャリアウーマンだったらしい初瀬桃子(江口のりこ)は家庭に納まり、夫の真守(小泉孝太郎)のために家事に精出している。姑の照子(風吹ジュン)に気を遣い、ゴミ置き場の清掃にも気を配るなど、一見したところ模範的主婦である。だが、なんでもない日常にも不穏な気配はあり、ときどきゴミ置き場に不審な火災が起こる。肝腎の夫婦生活はうまくいっていない。それでも桃子は平静を装って日々を送っている。
衣裳が妙に目立つ。鮮やかなグリーンのブラウスは猛暑の中でしわが寄り、趣味がいいのかわるいのかわからなくなっている。顔はてかり、髪は肌にへばりつく。まもなく、このグリーンのブラウスは外出着で、桃子はカルチャーセンターで手作り石鹸の講師をしているとわかる。教え方の手際はよく、主婦たちに好評のようだ。わずかながらでも自分で稼げるということはささやかな自信になっている。
やがて怖れていたことが現実になる。夫が愛人の奈央(馬場ふみか)に会ってほしいと言い出した。イエローのゆったりしたロングドレスをまとい、レッドの口紅を引いて、桃子はさっそうと決戦の場へ向かう。高みからぴしゃりとやりこめたつもりが、相手側から妊娠しているという告白がある。このとき、わたしは両方の立場を想像する。イエローとレッドで武装した女王であれば、夫の愛人などひねりつぶせそうだし、女王の逆鱗に触れた愛人であれば、恐ろしさで立ち上がれなくなりそうだ。だが事態はどちらにもならない。女王はむやみに動揺し、愛人は落ち着いている。そこからこの物語の深い謎が顔を出す。
気になるのは飼い猫の存在と床下のこと。飼い猫は実際にいるのかいないのかわからない。床下から聞こえる猫の鳴き声は赤ん坊の泣き声のようにも思える。そこから連想するのは『残穢(ざんえ)―住んではいけない部屋―』(2015・中村義洋監督)という傑作ホラーで、床下の異様な存在や泣き声が人を狂わせ、自殺や殺人が連続する陰惨な物語だ。鳴き声が気になった桃子がチェーンソーを購入し、畳を上げ、床板の切断を始めると、登場人物全員が惨殺されてもおかしくないと思えてくる。
むろん、この映画の場合はそういうお定まりの展開にはならず、桃子が床下の土の中から発見するのは人の遺体でも動物の死骸でもない。けっこう何でもないもののようであり、重要なもののようでもある。原作のあらすじによると、桃子と真守が住む“離れ”には、かつて真守の祖父の愛人が住んでいた。愛人をめぐる人間関係がけっこう大きいが、映画ではその部分が描かれていないので、発見されたものは、その愛人とは関係がなさそうだ。となるとありきたりなようだが、桃子が見つけたものは彼女の妄想ということになる。なんだかいまひとつだ。妙なところでわが想像力のなさを思い知る。
桃子の愛猫の行方は知れず、ゴミ置き場の不審火の問題も解明されず、わかったことは、真守が桃子ではなく愛人の奈央を選んだということだけだ。彼は子を産む女を好むというか、子を産む能力のある女に引きずられやすい男だと察せられ、もし奈央がうまく出産できなかった場合、また違う女に引き寄せられるだろう。それが初瀬家の血筋というか、多くの家の表に出せない常識になっているのかもしれない。救いは、息子に見切りをつけた照子が「いろいろあったけど、やり直しがきくわよ」と桃子に言い、離れを譲ることだ。
わたしの結論はこうだ。だいぶ遠回りをしたけれど、桃子は初瀬家をぶっ壊したのである。たった一家族ではあるが、得体のしれない因習のようなものに囚われていた家族を解放したのである。解放された人はみなそれぞれに生きて行く。溶けかけたミントブルーのアイスキャンディをパクリと食べる桃子は、やっぱり私の大好きな女王、江口のりこである。
◎8月30日より公開中
内海陽子プロフィール
1950年、東京都台東区生まれ。都立白鷗高校卒業後、三菱石油、百貨店松屋で事務職に従事。休みの日はほぼすべて映画鑑賞に費やす年月を経て、映画雑誌「キネマ旬報」に声をかけられ、1977年、「ニッポン個性派時代」というインタビューページのライターのひとりとしてスタート。この連載は同誌の読者賞を受賞し、「シネマ個性派ランド」(共著)として刊行された。1978年ころから、映画評論家として仕事を始めて現在に至る。(著者の近著はこちら)
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