リュック・ベッソンの『DOGMAN ドッグマン』;すさまじい殺戮と深い癒しの物語
『DOGMANドッグマン』(2023・リュック・ベッソン監督)
映画評論家・内海陽子
奇人、変人、あるいは狂人と思われる人物と精神科医が室内で向き合う。こういうシーンを見ると、にわかに緊張する。なぜともなく、精神科医が非常に無力な存在に見え、怖ろしいことが起こる予感がするからだ。わたしは夜中にたたき起こされたシングルマザーの彼女に同情するが、幸いにも、これは取り越し苦労に終わり、彼女に危害が加えられることはない。奇人、変人に見えた女装の男はホラー映画の主人公ではなく、繊細で複雑な内面を持つ紳士である。
リュック・ベッソンの久しぶりの監督作品は力がこもっていて素晴らしい。主人公は悲惨な境遇で育ったダグラス(ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ)で、物語は、彼が生い立ちから現在に至るまでのさまざまな出来事を精神科医デッカー(ジョージョー・T・ギッブス)に吐露する形で展開される。冷酷で他人の心を推し量れない父と、父の腰巾着のような醜悪な兄によって、犬舎に閉じ込められたダグラスは、犬たちの温かさに守られ、また、自分が犬たちの守護者であることを知り、正気を失うことなく生き延びる。
父と兄の残酷な仕打ちによって脊髄を損傷し、脚が不自由になったダグラスが信じるのは犬だけだ。誰にも心を開かず、いくつもの養護施設を転々とした彼は、ようやくある施設で、演劇に情熱を傾ける溌溂たる教師、サルマに会う。彼女によってシェークスピアを知り、名作の数々を記憶し、ともに演じた彼は、演じることに生きる価値と喜びを見出す。彼女は自分自身の未来を求めて施設を去るが、ダグラスは悲しみをこらえ、舞台女優としてスターになって行くサルマのために見事なスクラップブックを作り、再会の日を待つ。
彼は、飼い主に見離された憐れな犬たちを保護するシェルターの優秀な管理者として生きて来たが、劇場で再会したサルマとその夫の幸福な姿を見て深く絶望する。そのとき、施設にいる多くの犬たちは帰還した彼の心の痛みを察して精いっぱいの思いやりを示す。特にこのシーンから、犬たちとダグラスの関係が、ドッグトレーナーの手による巧みな仕事の成果とわかっていながら、きわめて美しい奇跡のような心の通い合いに見えてくる。
リュック・ベッソンは、今までも胸が熱くなるヒーロー、ヒロインを世に送り出してきたが、このたびダグラスを演じるケイレブ・ランドリー・ジョーンズもまた忘れがたい印象を与える。下肢が不自由なため上半身がみごとに発達し、女装している二の腕がはちきれんばかりで、そこが不遜でかっこいい。施設での演劇公演で鍛えたのか、発声や話し方、間の取り方が堂々たるもので、見ていて圧倒されるけれども、どこか愛らしくもある。そんな彼に対していて、次第にリラックスしてくるデッカーが、最後にファーストネームを明かすくだりに、両者の間に生まれた絆の確かさがうかがえる。
犬たちの行動のひとつひとつはクライマックスに向かって圧巻で、ことこまかな説明は控えるが、一頭のドーベルマンにだけ触れておきたい。ダグラスを虐待して刑を受けた兄が、8年後に模範囚として出所するくだりがある。犬たちはそれを知ってざわめき、なかでも「律義なポリー」ことドーベルマンのポリーがダグラスの真意を感じ取ったか、すぐさま兄のもとへ向かう。兄が犬たちによって惨殺されるかと思いきや、その先は描かれない。ダグラスは「神が手を下した」というようなことを言う。多くを語らず涼しい顔のダグラスはまるで大女優のような貫録である。
「律義なポリー」の律義たるゆえんがはっきりわかる大事なシーンがもう一か所あり、わたしなどはあまりの美しさに陶然としてしまう。そこを明かしてはならないが、そのシーンを思い出すだけで、幸福感に包まれる。そう、このすさまじい殺戮シーンをクライマックスに置く物語は、じつは驚くほどやさしく、いたわりに満ちた“癒し系映画”なのである。
●3月8日より公開
内海陽子プロフィール
1950年、東京都台東区生まれ。都立白鷗高校卒業後、三菱石油、百貨店松屋で事務職に従事。休みの日はほぼすべて映画鑑賞に費やす年月を経て、映画雑誌「キネマ旬報」に声をかけられ、1977年、「ニッポン個性派時代」というインタビューページのライターのひとりとしてスタート。この連載は同誌の読者賞を受賞し、「シネマ個性派ランド」(共著)として刊行された。1978年ころから、映画評論家として仕事を始めて現在に至る。(著者の近著はこちら)
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