切ない愛だけがそこにある;『平場の月』の恥じらいと清らかさ
『平場の月』(2025・土井裕泰監督)
映画評論家・内海陽子
気安い雰囲気の焼鳥屋に流れる歌に耳を傾けると、店の大将(塩見三省)がぼそっと「薬師丸ひろ子」と言う。そうだ、薬師丸ひろ子主演の映画『メイン・テーマ』(1984・森田芳光監督)の主題歌だ。「愛ってよくわからないけど 傷つく感じが素敵」というフレーズが心に刺さる歌を、中年の女性がきれいな声でくちずさめば、傍らの男性も満足げだ。店のカウンターで肩を寄せ合う二人は、中学校時代の同級生である。
青砥健将(堺雅人)は胃の検診のために来た病院の売店で、派遣として働く須藤葉子(井川遥)と再会した。ともに50歳になっており、結婚はしたが、青砥は離婚し、須藤は夫に先立たれた。誰かに聞いてもらいたい愚痴はあるが、誰でもいいというわけではなく、二人は互助会と称して互いの現在を語り合う機会をもうける。そして外食は料金がかさむという理由で、須藤からうちで飲まないかと誘われ、青砥は承知し、二人は節度を保った逢瀬を重ねる。やがて、青砥ではなく、須藤の身体が深刻な状態にあるとわかる。
お互いを「須藤」「青砥」とぶっきらぼうに呼び合う二人は、須藤の病の発覚に後押しされるように、少しずつ互いの心に踏み込む。青砥の脳裏をかすめるのは、中学校時代の須藤の「太さ」で、それは体型のことではなく内面の強さのことであり、それゆえに彼は慎重さを崩せない。須藤は結婚生活が芳しいものではなかったことをあけすけに語り、若い男に貢いだ日々があったことも話す。まったく褒められた人生ではない、ということだが、それを聞かされても、青砥の中の須藤の像には何の影響もない。青砥は須藤が好きだ。
須藤の職場には、同じく元同級生のウミちゃん(安藤玉恵)がおり、彼女が目ざとく青砥と須藤の仲に気づき、やいのやいのと騒ぎ立てる。それを二人は迷惑に思うが、はたで見ているわたしには、ウミちゃんの“スピーカー”ぶりが温かく好もしく、その尻馬に乗りたい気持ちが強まる。青砥と須藤、当人たちに感情移入するというよりも、二人は大事な友人で、その友人の大事な話を少しももらすことなく聴きたい、その懸命な姿を見届けたいという気持ちになるからだ。緊迫感がどんどん募ってくる。
かつて須藤が心を奪われた若い男(成田凌)が彼女のアパートを訪ねて来る。いかにも甘え上手なレディキラータイプだ。2度目に彼を見たとき、青砥は声を掛けられる。彼は須藤に渡してくれと青砥に封筒を差し出す。その中にはしわくちゃの札が数枚入っているように見える。青砥は「彼女に嫌われないほうがいい」と言ってそれを彼に返す。そこには嫉妬心というよりも怒りがある。この若造には須藤のことが何もわかっていないという怒りだ。わたしは青砥という男のことが少しわかり、須藤は幸せだなと思う。
青砥と須藤が結ばれるシーンはごく短いけれど非常に印象深い。中学校時代に一度したように、青砥は須藤の頬に自分の頬をそっと寄せる。ためらったすえに青砥を受け入れる須藤が「恥ずかしい」と言い、それを受けて青砥が「俺だって恥ずかしいよ」と言う。観ているわたしはくすっと笑うが、むろんそれは祝福のつもりだ。50年生きて来たからこその恥じらい。なんという真実味、なんという清らかさだろう。
しかし二人の思いはどうしてもすれ違っていく。青砥には男としての意気地と須藤への思いやりがある。須藤は自分の過去の体験への悔いをどうしても消せない。重い病にかかったがゆえにその悔いは濃くなり、青砥に気兼ねなく甘えることを許さない。青砥のいささか性急なプロポーズは彼女の心を硬化させ、二人はいったん気まずい別れを迎える。むろん、決定的な別れではなく希望がある。それは青砥がカレンダーに付けた印に明らかだ。闘病が須藤を頑なにしているだけだ、彼女の気持ちの変化を落ち着いて待とう。青砥は我慢する。
“そのとき”は突然やって来た。呆然とする青砥に、姉を見守って来た須藤の妹(中村ゆり)が、青砥に大事な知らせをしなかったことを謝る。そして姉の真意を伝える。「合わせる顔がないんだよ」。
『メイン・テーマ』の心に刺さるフレーズはこう続く。「笑っちゃう 涙の止め方も知らない 20年も生きて来たのにね」。50年も生きて来たなら、なおさら涙の止め方はわからない。笑っちゃう切なさだけがそこに残る。「愛ってよくわからないけど」、青砥は須藤の気持ちがわかっている、須藤も同じだ。互いに、それが愛だということもわかっている。二人に敬意を表してもらい泣きは我慢すべきだろうが、なかなか難しい。
◎2025年11月14日より公開
内海陽子プロフィール
1950年、東京都台東区生まれ。都立白鷗高校卒業後、三菱石油、百貨店松屋で事務職に従事。休みの日はほぼすべて映画鑑賞に費やす年月を経て、映画雑誌「キネマ旬報」に声をかけられ、1977年、「ニッポン個性派時代」というインタビューページのライターのひとりとしてスタート。この連載は同誌の読者賞を受賞し、「シネマ個性派ランド」(共著)として刊行された。1978年ころから、映画評論家として仕事を始めて現在に至る。(著者の近著はこちら)
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