菅野美穂の一挙一動が恐怖を生み出す;『近畿地方のある場所について』が発散するホラーの波及力

『近畿地方のある場所について』(2025・白石晃士監督)

 映画評論家・内海陽子

 夏休みの映画館には納涼気分を味わおうという積極的ムードがあった。特に、映画が始まる寸前に近くに座った体格のいい男性は、映画の転換点や盛り上がりそうな場面にかなり敏感に反応し、それが座席の振動でじかに伝わって、わたしに落ち着きと余裕をもたらした。こんなの、まだまだちっとも怖くありませんよ、これからですよ。

 そう思っていたのだが、この映画の怖さは、物語の展開そのものよりも、水先案内人である女優、菅野美穂の一挙一動にあることがだんだんとわかってくる。なにげない表情、微妙な立ち居振る舞い、突発的で意外な激しい行動、静かなほほえみ。その奥にありそうなものがわかりそうでわからない、わからなくてもかまわない、彼女が演じる存在そのものが妙に頼もしく感じられて、吸い寄せられる。自分が恐怖を感じているのかいないのか、それすらもあいまいになっていく。これが物語に引き込まれるということなのだろう。

 廃刊がささやかれるオカルト雑誌の編集長、佐山(夙川アトム)が、突然失踪した。古びた出版社ビルの地下にある資料室には、彼が集めた雑多な記事やテープ、データが山積みだ。若手編集部員、小沢(赤楚衛二)は、それらを一週間でまとめてほしいとライターの千紘(菅野美穂)に頼む。不審な死や自殺、狂乱と奇怪な事件がいくつも取材されており、それらを整理していくと“近畿地方のある場所”を指し示していることがわかる。

 映画の前半は、これらの記事や映像が少々滑稽におどろおどろしく紹介される。心霊スポットを探訪して紹介するユーチューバーの男が、ある建物の開かずの間をこじ開けて侵入するシーンには身構えるが、中にある事物は意外に新しくきれいで、いかにも映画のために美術さんが工夫しましたというかんじ。わたしは廃墟になりかかった建物を見るのがけっこう好きなので、その体験からすると、いささか物足りない。しかし、それはシロウト向けの軽い挨拶のようなものだと思い知らされることになる。

 テキは一つではない。近畿地方のある場所に生じた怪異は、次々に飛び火し、変異し、いくつもの恐怖の現象を巻き起こす。赤い女、首の折れた男児、若い女を柿の実で誘う(おそらく)もてない男。この男の場面は、昔話風のアニメーションで描かれ、郷愁と悲哀が加わる。女子高生のちょっとしたいたずら心と慢心があっさり死を招くこともある。集団ヒステリーと解釈される事件もある。「ひとりで行動するな」と千紘に言われたにもかかわらず、単独行動してナニカに魅入られた小沢を、千紘がビンタを一発食らわして正気に戻す場面もある。そのあたりから、徐々に物語の方向が絞られていく。

 千紘と小沢が食事をするシーンがある。ナニカに魅入られて憔悴した小沢を元気づけるかのように千紘は食事を提供するが、子を産んだことのある女性のやさしさかと思いきや、どうやらそうではないということがのちに明らかになる。とある取材相手の青年が、僧のお祓いを受け「生き物を飼え」と言われてメダカを買えば、それはどんどん死に、猫を飼えば数匹が死に、そのたびに補充する、と自分の部屋で説明するあたりが、わたしには最もホラーだ。その現象に向き合った千紘が妙に落ち着いているのも、水先案内人の余裕によるものではないということがのちにわかる。

 そして「あまのいわやと」という教団の信者たちの集合写真の中に千紘がいるのを見たときにぎくりとする。千紘にも、新興宗教にすがらなければならないようなことがあったのか? という驚きである。同じように不審を抱く小沢に対して、千紘はなんでもないことのように言いつくろってみせるが、タフな行動力を見せる彼女のまったく違う一面がここで立ち現れる。人間はわけがわからない生きものだということがよくわかる。

 かつて、菅野美穂という名でわたしがすぐに連想したのは『富江』(1999・及川中監督)だった。男たちに殺意を抱かせるほど傲慢な魅力を放つ美少女が、何度殺されても甦る。再見してみれば、実際にはさほどショッキングな映像ではないのに、しばらくするとイメージの中でまがまがしさが増幅する映画である。大昔から生きている「富江」は、いつどこに現れても不思議ではなく、映画が終わっても存在がそのまま他の虚構に滑り出していくかんじだ。このたび『近畿地方のある場所について』に現れた菅野美穂は、怪異そのものの育ての母として、あらゆる恐怖をすんなり統合させる美女になっていた。

◎2025年8月8日より全国公開

内海陽子プロフィール

1950年、東京都台東区生まれ。都立白鷗高校卒業後、三菱石油、百貨店松屋で事務職に従事。休みの日はほぼすべて映画鑑賞に費やす年月を経て、映画雑誌「キネマ旬報」に声をかけられ、1977年、「ニッポン個性派時代」というインタビューページのライターのひとりとしてスタート。この連載は同誌の読者賞を受賞し、「シネマ個性派ランド」(共著)として刊行された。1978年ころから、映画評論家として仕事を始めて現在に至る。(著者の近著はこちら

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