ひたすら食欲に従って生きる!;『劇映画 孤独のグルメ』はさらにすがすがしい

『劇映画 孤独のグルメ』(2025・松重豊監督)

 映画評論家・内海陽子

 すっかり馴染みになったドラマの主人公の名がすぐに出てこないのは、演じる松重豊のせいだろう。ドラマに慣れ親しんでからは「松重豊」のフェイク・ドキュメンタリーのような気持ちで観ているので、主人公の名が要らなくなってしまった。よほど胃腸の具合が悪い時はともかく、まずまずの健康状態なら、松重豊の光り輝くような胃袋の、当日の働き具合をしかと観られるのがまことに嬉しい。彼の旺盛な食欲を楽しめるかどうかに、わたし自身の健康がかかっているような心境になっている。

 輸入雑貨商の井之頭五郎(松重豊)ははるばるパリへとやって来た。機内食を2回も食べそこねて腹ペコである。彼を腹ペコ状態にするために機内食を“取り上げた”のは明らかだが、それはご愛敬だ。外国に来たので、好みの店を探すのは困難ではないかと心配していると、彼は持ち前の嗅覚で渋いビストロを探り当て、まずはオニオンスープにとりかかる。この導入部の焦らし具合のテンポがよく、こちらの食欲=観る意欲もかきたてられる。

 かつて恋人だった人の娘・千秋(杏)とその祖父・一郎(塩見三省)に会い、届け物をすると、病み衰えている一郎から、幼いころ飲んだスープのレシピを調べてくれと依頼される。“いっちゃん汁”というそのスープを探して長崎県の五島列島を訪ねても、たいした情報を得られない。五郎は目指す島へ行くために“スタンドアップパドルボード”でこぎ出すが、台風の余波であえなく遭難、見知らぬ浜辺に漂着する。右も左もわからないが、まずは腹ごしらえとばかり、海の幸とそこらのキノコを入れた即席鍋を作って食べれば勇気百倍…とはならず、彼は口から泡を吹いて悶絶。犯人はキノコか?

 目覚めれば、五郎は韓国領の島にいるとわかる。リーダー格の志穂(内田有紀)と数人の韓国人女性が料理研究をしながら穏やかに暮らしており、五郎は親切なもてなしを受ける。ここは一種の竜宮城でもあろうか。島で採れた食材を丁寧に調理したご馳走をふるまわれ、五郎は王侯貴族になった気分である。たったひとりの外国人男性はどうやら用心棒らしく、五郎は彼に小突かれながら、入国審査を受けるために本島へ向かう。

 ドラマらしいドラマはなかったテレビシリーズと違い、いくらか濃い人間関係が生まれるが、五郎を支配するのはいつも食欲なので、大きな違いはない。待ち合わせ場所で待ちぼうけを食い、空腹に耐えかねた五郎が目の前の食堂にはいれば、そこがまた大当たり、というのはまだ竜宮城にいるからかもしれない。遅れて到着した韓国入国審査官(コ・ジェミョン)の目の前で悠然と食事することになるが、職務の最中で食べられない審査官がよだれをたらさんばかりの表情で見つめているのも悪くない情景で、ここはやはり竜宮城である。

 松重豊が食べているときの様子がなぜこんなに楽しいのかと考えると、食べ物に対する姿勢が美しいからということに尽きる。食べ物に対する姿勢は、それを調理する人への敬意に繋がり、それはめぐりめぐって自分に返ってくる。つまり、自分を大切に生きるということに行きつく。井之頭五郎=松重豊が、仕事に誠実に丁寧に向き合っていることは明らかで、そこには優れた調理人がいい食材と向き合うときと同じ真剣さがある。その真剣な姿勢が良き空腹を生み、次の良き料理を招き寄せるのである。

 今回、監督・脚本も手がけた松重豊は、肩に力が入っている様子もなく、いつものようにたんたんとしているが、しいて言えば茶目っ気が増したようだ。ドラマではハードボイルド調に抑えられていた部分を解放し、のびやかに遊んでいる。ちょっと恥ずかしい食べ方をしたくて周囲をうかがったり、入国審査官をからかうようなそぶりを見せたり、とあるグルメ番組に客の役で登場してみたり。監督ならではの裁量を存分に発揮するというのではなく、いままでできなかったことをちょっと試してみました、と肩を軽くすくめるかんじ。そのほどのよさもまた松重豊の人格を物語る。

多少の人間ドラマが生まれても、井之頭五郎=松重豊の基本姿勢は、食欲に従って生きること、それだけだ。劇映画になった『孤独のグルメ』は、さらにすがすがしさを増したようである。松重豊の品のよさよ、永遠なれ。

◎2025年1月10日より公開

内海陽子プロフィール

1950年、東京都台東区生まれ。都立白鷗高校卒業後、三菱石油、百貨店松屋で事務職に従事。休みの日はほぼすべて映画鑑賞に費やす年月を経て、映画雑誌「キネマ旬報」に声をかけられ、1977年、「ニッポン個性派時代」というインタビューページのライターのひとりとしてスタート。この連載は同誌の読者賞を受賞し、「シネマ個性派ランド」(共著)として刊行された。1978年ころから、映画評論家として仕事を始めて現在に至る。(著者の近著はこちら

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